<江戸グルメ旅>目黒の秋刀魚

 「落語の世界、目黒と秋刀魚の関わりは?」

 いよいよ「天高く馬肥ゆる秋」いつもダイエットに心掛けている筈の、馬も太る味覚の秋である。秋の味覚を代表するもののひとつが、秋刀魚である。江戸っ子のスター鰹が、今年の出番を終え舞台を降りる頃、待ってましたと、登場してくる役者が秋刀魚である。脂ののった、塩味のきいた渋い演技で。江戸庶民の舌をうならせた。その頃、江戸の郊外、田舍であった目黒の名をメジャーにしたのが、この秋刀魚とさる殿様と正真正銘、目黒の特産物タケノコである。海に面していない目黒に、何故秋刀魚が登場したのか、日頃鯛など高級魚などを食している殿様が、当時下魚とされた秋刀魚を、何故食べる事になったのか、その舞台と経緯を、今年も不漁が続く秋刀魚を食べたつもりで探ってみる事にしよう。

 「江戸」という地域は、鎌倉初期江戸重長の時代、現在の東京駅や日本橋であった。時代は下り、家康入府の頃は、江戸の城周辺二里四方が江戸であった。明暦3年(1657)の「明暦の大火」により江戸は大川の向こう深川、本所まで拡大する。士農工商という身分制度によって居住区域も区別されていた江戸は、支配する機関もそれぞれ異なっていた。下町では橋や河岸などを、山の手では坂や崖などを目安に街を訪ね歩く、そういう時代であった。正徳3年(1713)江戸の町数は933に達する。「うそよりも 八町多い 江戸の町」江戸の拡大により市街地の範囲を決めたのが,元禄11年(1698)の町奉行の支配圏を示す「榜示杭」であった。「此杭よ里内小荷駄馬口附し者不可乗者也」この範囲は、東は本所万年橋から横堀、北は浅草寺から駒込目赤地蔵、西は四谷大番から青山御掃除町、南は増上寺から芝牛町喰違辺りで、まだ目黒鷹番や駒場は江戸ではない。享保15年(1730)の大火事により、町奉行大岡忠相は防火のため市街地に屋根瓦、土蔵造りを奨励した。中山道筋でも本郷辺りまでは防火造りとなったが、その先は板が草葺きの家が続いた。そこで詠まれたのが「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」かねやすは口中医師、今でいう歯医者、乳香散という歯磨き粉を売り出し人気をよんだ。現在は衣料雑貨店を営んでいる。。

 江戸はますます拡大、支配する機関によって、独自の範囲が設定されていった。①町奉行が管轄する町人地 ②寺社奉行が勧化(勧請)=寄付を許可する範囲 ③江戸所払者の立ち入り禁止区域、御構場所は、品川、板橋、千住の三宿と四谷大木戸、本所、深川より内側であった ④塗高札場を掲示する対象地域 ⑤旗本、御家人など幕臣が御府外に出る時、届け出が必要な区域などである。文化元年(1804)老中見解の御府内は、江戸城曲輪内(常盤橋御門、外桜田門、半蔵門、神田橋御門)から四里以内の地域であった。文政元年(1818)8月、「御府内外境筋之儀」が出され、これまで漠然としていた江戸内外を区別する為、幕府評定所は地図上に「朱引」を引き、正式に府内と府外を区別したのである。この時の御府内(朱引内)つまり勘定奉行の行政上の範囲は東は中川、西は神田川、南は南品川を含む目黒川、北は荒川、石神井川下流のそれぞれそ限りとした。同時に町奉行支配の地域も示され「墨引」と呼ばれた。その範囲は、東は永代新田、猿江村辺り、西は下高田村、大久保村辺り、南は下高輪村、中目黒村辺り。北は蓑輪、駒込、巣鴨の各村辺りである。朱引が現在の山の手線に沿った線であるのに対し、墨引はそのひと廻り内側の線引きとなっているが、目黒の鷹番、目黒不動辺りだけが、何故か朱引図より突出していた。この正式理由は、ここに江戸五色不動のひとつ「目黒不動」があり、江戸三富のひとつでもあった事から、日帰り目的の人気スポットであった、この為奉行所支配とされた。しかし、ここは将軍家恰好の御狩り場、町奉行管轄の方が何かと都合のいい将軍家の意向も見え隠れしている。この時代やっと目黒鷹番が「江戸のうち」に入る。「朱引」「墨引」は元禄の榜示杭の様な具体的施設はなく、書類上の区別にとどまった。しかし、関係機関の解釈による曖昧さを払拭、朱引内を「御府内」とする幕府見解により、一応の収拾をみせる事になる。

 さて、「鷹狩り」は武士が政権を執る様になってから、武力の鍛錬と行政区域の視察を目的として、江戸時代にはいってからも家康、三代家光、八代吉宗などが特に好んで行われた行動である。将軍が鷹狩りを行う場所は「御鷹場」「拳(こぶし)場」「御留場」と呼ばれ、文化二年(1805)の「目黒筋御狩場絵図」によれば、現在の大田区西馬込、世田谷区全域、麻布、駒場、品川と広い範囲であり、約60万に及ぶ駒場野や碑文谷原が絶好の狩り場であり、家光は6回、吉宗は15回訪ねている。。一方「駒場」の名の由来は ①古代の牧場の名残である ②幕府の馬を調教したからともいわれ、古くから駒=馬の産地で「駒場野」ともいわれた。また、周辺の住民の共同の草刈りであり、享保年間(1716~36)「御狩場」に定められた。この辺りは下馬、上馬、駒沢など馬に因む地名が多い。目黒筋鷹狩場の番人の屋敷を「鷹番」とよんだ。また、この鷹番の他に、無償で従事させられたのは、地域の村民たちであった。普段の見廻りから鳥類の保護に始まり、接待から勢子まで、大変な労働とストレスを強いられた。おまけに田や畑までも踏み荒らされ、農民達にとっては鷹狩りは「迷惑」の言葉でしかなかった。また、これに従事する家来たちも大変なストレスを担った。当日将軍様の獲物となる鳥や動物たちは、そうそういつもそこにいる訳でもないし、都合のいいように捕まえてくれる訳でもない。そこで家来たちは、あらかじめ獲物を捕まえておき、それをタイミングを見計らって放つ事にした。将軍様は性格的に生まれながらの我儘である。対人間においてもそうであるが、動物に対してもそれが通ると思っている。この考えが家来たちを地獄の軍団に導く。その役職を「綱差(つなさし)」といった。目黒筋の綱差は代々、川井権兵衛を名乗った。この権兵衛さん、雉を補獲するのには苦労した。餌を蒔いておくと、雉の前に烏がやってきて用意した餌を食べてしまう。権兵衛さんまた餌を蒔く。また烏が食べにくる。「権兵衛が種まきゃ 烏がほじくる」この唄全国各地にあり、どこが本家か解らない。権兵衛さんの様な地道な苦労した下級武士が、全国にいた事を物語っている。

 さてさて、古典落語の傑作「目黒の秋刀魚」は、安価な秋刀魚を下手に丁寧に調理すると、不味い物になるという噺と、世間を知らない殿様が知ったかぶりをするという滑稽噺であるが、この噺の舞台となった「爺々が茶屋」は二説あって、林百助の随筆によると「道玄坂」、目黒教育委員会によると、目黒区中目黒2丁目と三田2丁目の間の「新茶屋坂」となる。江戸期にはこの上を「三田上水」が流れていた。新茶屋坂は江戸の頃は茶屋坂とよばれ、目黒行人坂が急だったため、バイバス的に造られた「権之助坂」の北にあった曲がりくねった坂であり、ここからの富士の眺めは良かった。この坂の途中に爺々が茶屋」があった。この茶屋の風景は、広重の「江戸百」第54景「目黒爺々が茶屋」にも「絵本江戸土産」にも、同じ構図で描かれている。主人は代々彦四郎、鷹狩りの帰りに目黒不動に参拝、この茶屋で休憩して「じじ、じじ」と声をかけたことからこの名がついたとされる。この殿さまも噺家によって、出雲国松江藩の殿様だったり、将軍家だったりする。ある秋の日、鷹狩りの帰りに寄った殿様に、じじは大根下しをたっぷりのせた、カボスがあったか定かではないが、秋刀魚の塩焼きを振舞う。普段日本橋川俎板橋近所に住む「御賄い方」が調理する鯛は、蒸して脂が抜かれ小骨も丹念に抜かれ、いじりまわされ冷めた代物となって出てくる。それが、ただ水洗いして、軽く塩を振りまき、七輪の強い火力の炭火で焼かれた、アツアツの「じゅうじゅう」いってる秋刀魚が殿様でなくとも不味い訳がない。殿様、この日この昼、この秋刀魚の味が脳裏にぴったしとインプットされた。早速、屋敷に帰って秋刀魚を所望すると、いつもの調理人が作り、出てきた秋刀魚はフレークの様な秋刀魚、そこででた「秋刀魚は目黒にかぎる」

 では、今回の影の主役秋刀魚は、何処から海のない目黒の爺々が茶屋に運ばれてきたのであろうか?魚は日本橋魚河岸でしょ と云う回答は少々甘い。江戸期の市場は、ここと「四日市」「新肴場」と落語芝浜でお馴染みの「雑魚場」である。当時、目黒の農民は働き者、自分の畑で採れた里芋などを連雀に入れ、雑魚場辺りで商品を売り、その売り上げで秋刀魚など海産物を仕入れ、産地の遠い目黒で売った。芝浦で1度稼いで、目黒でもう1度稼ぐ、ツーウェイの商売をしていたため、爺も秋刀魚を意外とたやすく手に入れ、商品として提供出来たのである。冷蔵、冷凍技術を持たない江戸時代、日本橋からではちぃとモノが痛む、それでは殿様も「秋刀魚は目黒に限る」とまでは絶賛しなったに違いない。

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