<江戸グルメ旅>深川萬年橋・鰻

 江戸後期活躍したニ人の著名な浮世絵師が「深川萬年橋」を描いている。一人は葛飾北斎、冨嶽三十六景のうちの「深川萬年橋下」小名木川に架かる虹型の橋の上に大勢の人が行き来している。その橋の下には橋の上の人々から避けるように、ひとり糸をたれている釣り人が岩の上にしゃがんでいる。釣っているのは鰻であろうか?川面には数艘の舟が舫い、大きな舟の舳先の向こうにはタイトル通りの冨嶽、霊峰不二がやや堅い表情で描かれている。何とも奔放な構図の作品である。

 葛飾北斎は宝暦10年(1760)本所で生れ、母は忠臣蔵でお馴染み赤穂浪士と闘った吉良家の小林平八郎の孫娘、北斎にもれっきとした武士の血が流れている。引越好きで転居が93回、改号が30回、葛飾北斎の号は文化2年(1805)のものだという。此の人、人に似合わず酒は飲まない、茶も上等なものは飲まない。亡くなったのが幕末の嘉永2年(1849)であるから行年御年90歳、酒を飲まない方が長生きする人もいる。北斎、生涯に2度結婚、それぞれに一男ニ女を設けているから子宝に恵まれた。三女の名は「お栄(応為)」といい、一度結婚して離婚後、親の北斎の助手をしながら絵師として自立をしている。所謂今流行りの出戻り娘である。この娘、本名はお栄だが、何故か応為のほうが通りがいい。父親、北斎が娘を呼ぶ時「おえい」と呼ばず「お~い、お~い」と間の「え」が「~」になった。江戸っ子の何でもしゃくりたがる悪い癖である。呼ばれた本人、最初のうちは腹が立って返事もしなかったであろうが、その内本人も面倒くなって、「お~い」と呼ばれて親父の仕事を手伝う様になった。お栄さんの気量も大したものだが、これに充てた漢字の「応為」がいい。なすがままに生きながら、しっかと自分をいきている人間がそこにいる。ここで応為の名言。或る日、弟子の娘が上手く描けないと嘆いていると「何事も自分が及ばないと嫌になる時がある。その時が上達する時なんだ」傍にいた北斎、涙を流したかは定かでないが、何度も大きく頷いたと云う。因みに「冨嶽」という文言、我が国が誇る次世代スーパーコンピュターの名称にも登録されている。

 深川萬年橋を描いたもう1枚は、歌川広重描く「名所江戸百景」五十六景「深川萬年橋」手前におかれた木桶の取っ手に大きな亀がぶる下げられている。萬年橋に置かれたから、亀も萬年と広重いつもの洒落であろうが、この亀は仏教界における「放生会」生き物を放してやる事により功徳を得、自己の来世を恃むという教えに基づき、大川へ放される放生亀である。その向こうに萬年橋の欄干、さらに向こうは白帆を浮かべる大川、亀が前足で抱いているのは、いつも絵になる富士山である。歌川広重は寛政9年(1797)定火消同心の息子として八重洲河岸の同心長屋で産まれ、15歳で家督をこなしながら絵の道に入る。美人画から風景画へと重きをかえ「東街道五拾三次」を始め、天保年間には「名所江戸百景」を世に送りだしている

 「深川」は慶長年間(1596~1615)摂津から江戸にきた深川八郎左衛門によって開拓された江戸東部、大川左岸の土地である。明暦大火後、両国橋の架橋により急速に市街化され、日本橋や神田にあった材木河岸や倉庫、民家などが移転、人の移動や物資の運搬に小名木川などの掘割はおおきな役割を担った。その掘割にひとつ「小名木川」は隅田川(大川)と旧中川を結ぶ全長約5㌔の掘割である。家康は入府直後、行徳の塩の安定確保のため、小名木四郎兵衛に命じ開削させ、新川(船堀川)と併せ行徳川ともよばれていた。当時の江戸湾北部は季節凬が強く、また土砂のため海岸線が浅く座礁が続いた。そこで家康はこの海岸線に沿って杭を打ち、それをつなぐ堤を築き波浪を除け、土砂の侵入も防いだ。この小名木川と同じく進められたのが「道三掘」である。次いでの日本橋川も開削、関東郡代伊奈忠次らによる「利根川東遷」によって酒田や仙台の米や、知廻り品の醤油などが利根川を上り、関宿から江戸川に入り、中川番所で挨拶をし、小名木川から大川に出、箱崎川かの行徳河岸から江戸城和田倉門に運ばれたのである。和田倉の「わだ」とは古代語で「海」を指す。

 小名木川流域は地下水汲み上げのため地盤沈下が激しく荒川ロックゲートや扇橋閘門などで水位を調整しながら大横川、横十間河と舟を進ませていく。日本のパナマ運河である。是と同じ仕組みが「琵琶湖疎水」の京都側、蹴上にある。大津から引かれた琵琶湖の水は、四宮を通り東山辺りで小高い丘にぶつかる、これを克服するのが「インクライン」いくつかの柵を使い、水位をを調整しながら舟を進めていく方法である。この先は南禅寺、春の花吹雪は素晴らしい。「小名木川」の第一橋梁(河口の橋)が「深川萬年橋」現在は江東区常盤と清澄を結ぶ橋である。架橋年代が不明であるが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所の橋」と記載されている為、この頃にはすでに架けられていたものとおもわれる。この橋の北岸にあった川船番所は寛文年間(1661~73)中川口に移転、中川船番所、御番所、御関所ともよばれ、江戸に出入りする船の人や荷を検査したいわゆる海、川の関所である。番所の役人は5~6人の旗本が5日交代で勤めていたが、その勤務ぶりは「中川は 同じあいさつ して通り」であった。

 夏の土用丑の日は鰻を食べる日と半ば当然のようにいわれてきたが、そもそもこの土用という言葉は、東洋医学などでも使われているが、「陰陽五行説」からきたものである。五行説によると「木火土金水(もっかどごんすい)」という言葉が存在、これら五つの文字が宇宙、自然を支配しているという。「木」は春を「火」は夏「金」は秋「水」は冬を支配、では「土」はというと各季節の18日から19日を支配している為、土用は四季を通じて存在している訳であるが、何故か夏の土用のみが「鰻」のせいか有名になってしまった。

「二本差しが怖くて蒲焼が喰えるかい、気のきいた鰻は三本は刺してらぁ」江戸前とは江戸の城の前で獲れた肴、江戸風の考え方、流儀を指すが、この「江戸前」という言葉はそもそも小名木川、萬年橋で獲れた鰻を指していったといわれる。この鰻、時代をさかのぼると奈良時代、万葉集に「武奈伎(むなぎ)」の言葉が見られ、これが鰻の古称であるとされる。万葉の歌人大伴家持も友人に夏バテには鰻をたべなさいと詠んだ和歌を送っている。江戸期になり平賀源内や蜀山人が勧め、藤堂家に出前した処丑の日の鰻が旨かったとかで、夏バテ解消には鰻と相場がきまっていった。さて、鰻の語源はというと①家の棟木(むなぎ)のように太くて細長い ②胸が黄色(胸黄)③関西では胸を割く料理法(胸切る)④落語的解析になるが鰻にまだ名前が無かった頃おかみ「それ」くれが、おないぎ、おなぎ、「それ」がうなぎとなったというオチにもならない説もある。鰻は熱帯から温帯にかけ分布する魚で世界中で19種類あるという、その内食用は4種類、その内の1種類が「ニホンウナギ」小名木川の漁法は鰻塚、川に積み上げられた拳大の土手石、この隙間に鰻が住みつく。鰻の寝床である。その隙間にもぐり込んだ鰻を捕るわけだが、ほおっておくと隙間に泥が溜まり鰻が寝床を替えるから要注意である。また、筒を使った漁法もある。細長い筒は鰻の好きな間取りであるが、只鰻は人間様と反対に新しい筒には入らないから、事前に土や水に埋め、馴染ませておく事が必要である。もうひとつは穴釣り、鰻の居そうな穴にミミズをつけて釣る、良く釣れる時間帯は日没2時間前後だという。

 鰻職人は「割き三年、串八年 焼き一生」だといわれる。獲れた鰻は家康入府の頃は湿地帯が多く、鰻はそのままブツ切り、蒲の穂のようであった。享保年間(1716~30)濃い口醤油と砂糖が出回り、関東では背開きにして、1度素焼きにしてから蒸して脂をとる。これは関東の河川が人工河川のため、流れが緩慢であり、そこに生息する鰻が運動不足でメタボである事による。その後タレをつけ本焼きにして仕上げる。関西風は腹開きで淀川などが自然河川のため流れが急で蒸す行程は無い。江戸芝居町で小屋をはっていた今助さんは大の鰻好き、毎日近くの大野屋から出前を取っていたが忙しい時は冷えてまずくなる。そこで今助さん考えた、では飯の間に鰻を挟めばいい。冷めない、タレが浸みこんだ、一気にかっこめるウナ丼のできあがりである。欧州でも鰻の好きな人がいた。あるローマ教皇は白ワインにつけた鰻の焙り焼きを毎日食べ、食べ過ぎて命を落としたと云う、現代では肥満による成人病だと考えられる。鰻は手間がかかる。獲れた鰻は水や餌で体に臭味が残っているから、2~3日真水につけておく。そこから客の注文に応じて事が運ぶ事になる訳であるが、此の時間帯お客にとっても貴重な時間となる。店の好みは人様々であるが、ちょいと作りが余りしっかりしてない、クーラーなんかも余り効いてない様な店で好きな味に出合う事もある。良く漬かったヌカの味がする胡瓜の御新香なんかをアテに瓶ビールで飲りながら、以前から馴染みの「ひと」とゆるりと待つものも又いい。昼間のビールは効きがいい。なんとなくホンノリとして。「で、この間の話は」てなとこで「ヘィお待ちどさん」と物が運ばれ、食べる事に邁進。「じゃぁ結局話はどうまとまったの?」「あたぼうよ、今日は丑の日、鰻の日、ゆるりと上手く逃げられました」おあとがよろしいようで。

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