<江戸グルメ旅> 江戸の新米

「ジャポニカ新米と、江戸米の町」

 日本のあちこちで稲刈りが始り、いよいよ新米の季節、秋の味覚の代表、秋刀魚が今年も期待出来ない昨今、せめて香り豊かな新米をという事で、今回は新米の登場である。人間一人が食べる米の糧は、1石(10斗、100升、1000合)江戸期の1石の値段は金1両が相場で、米が主食の江戸の食生活において、エンゲル計数はさほど高くなかった。米1升を米粒に換算すると、4万8千粒になる。1升を人間の一生に例え、浅草浅草寺では毎年7月9日、10日(ほおずき市)を最大の功徳日とし、この日観音様に御参りすれば4万8千日分、御参りしたのと同様の功徳があるとした、何とも有難い日である。「四万八千日」を年に直すと、およそ126年分、人間の寿命の限界だと云われている。従ってこの日、観音様に御参りすると一生分の功徳が授かるという事になる。

 さて、稲の原産地は、インドベンガル椀の最奥、ガンジス河とブラマブトラ河の大デルタ地帯だとされている。我が国で食べられている米は「ジャポニカ米」中国長江流域で栽培化されたと考えられ、縄文時代の終わりの頃、朝鮮半島から、もしくは揚子江デルタから北九州に伝来、弥生時代になると、西日本から栽培が盛んになって全国に拡大、江戸期になり、人口の増加、武家層の備蓄も加わって、生産量を上回る需要となっていった。このジャポニカ米は、うるち米ともち米に分類され、コシヒカリなどはうるち米の品種となる。寒冷な気候には比較的強いが、栽培に適するのは、湿潤で夏期には高温になる亜熱帯気候が適している。といって開花期に極端な高温(36℃前後)にさらされると受粉に障害が起きる為、熱帯性気候での栽培は難しいとされる。丸みをおびたやや楕円形をした(長形の品種もある為、いちがいには言えないが)この「ジャポニカ米」は、世界米生産量約5億tの内の、約20%に過ぎず、残り約80%を占めるのはジャスミンライスともいわれる「インディカ米」である。細長い形をし粘り気が少なく、炊きあがりがパラパラとしているのが特徴である。ドライカレーやパエリアなどスパイシーな料理と相性がいい。他には生産量は少ないが「ジャパニカ米」がある。

 江戸時代、国の経済の根幹をなすものは、保有がきく「米」であった。この米の出来、不出来が幕府の財政を大きくゆるがし、国民の生活に深刻な影響を与えた。現代は「飽食の時代」主食を米としながらも、手当たり次第その都度、好きな物を何でも食べる。江戸の頃はそうはいかなかった。「四公六民」「五公五民」といった高い年貢に苦しめられた農民達は、身分制度では武士の次におかれながら、実生活においては米穀生産機械と化し「百姓の分際で米など食ふまじき事」「百姓と胡麻の油は搾るほど出る」「百姓は生かさぬ様殺さぬ様」などの本音が横行、施策通りの生活を強いられた。食べるに困った農民達は村を捨て、江戸へ来て働いた。賃金は安くとも、何の混じりけのない暖かい御飯、銀舎利が食べられた。炊きたての米は香りが良く、ただ噛むだけで甘味が増し旨かった。田舍ではめったに食べられない、米本来の味がそこにあった。米は研げば研ぐはど糠が落ち、光った御飯となるが、相対的にビタミンB1も流れる。この結果、欠乏症による「脚気」となる、人間が江戸には多かった。将軍様も患った脚気は、田舍生活に戻り、雑穀を食べだすと治癒した。ために「江戸患い」とよばれた。

 日本橋繁盛絵巻「熈代照覧」をひもとくと、現在、千代田区と中央区の区境になっていた「竜閑川(神田堀)」に架かっていた「神田今川橋」の南隣が「本銀町」、その更に南に隣り合っていたのが「本石町’(ほんごくちょう)」である。西から本石町通りを挟んで、1から4丁目の両側町であった。町は元々は石町といって、米問屋が集まる町である。米の計量単位は合、升、斗、石。石を扱う商人が集住する町だから石町とよばれた。神田にも生れたため、あちらを「新石町」日本橋を「本石町」とした。この近くには、五斗と五斗を合わせた「一石橋」もある。この町は米問屋ばかりの町ではない。3丁目の石町新道には、江戸の時間を支配する「石町時の鐘」があった。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」、現在の人間は秒単位で動かされているが、江戸の生活リズムは石ではない「刻」、「一刻」=2時間、その半分1時間を「半刻」、その半分30分を「四半刻」。これ以上の細かな刻みは江戸にはなかった。つまり、人間が行動する場合、この辺りを目安に動いていれば、大勢には変化はなかった。人の見方にも、この考えご取り入れられ、個人的評価はその個人そのものより、その個人が属している環境、職場、家庭などによって評価された。これを江戸の「間思考」という。因みに半刻の「半」は「なから」とも読む。従ってこの半分は「こなから」という。1升の1/4、2合半の徳利も「こなから」とよぶ。江戸時代、1日5合の扶持米を半分に分け、2合半毎にして、朝晩2回に分けて、食べていた御家人たちや奉公人たちを椰喩した言葉も、「こなから」といった。1合の米は炊くと茶碗で約2杯分となり、2合半なら5杯分、一膳飯なら親子4人は暮らせた。

 「時の鐘」と異次元を超えて存在したのが、阿蘭陀商館長、カピタンの常宿「長﨑屋」である。阿蘭陀は鎖国後欧州との唯一の貿易国、文化の交流の窓口となった国である。また、近くには芭蕉と並ぶ、江戸期の俳人与謝蕪村の「夜半亭」や、通町筋に面して、2丁目と3丁目の間には雛人形などを扱う「十軒店」もあった。米を扱う町は日本橋本石町の他に、墨田川(大川)右岸、浅草寺下流にあった、8本の舟入堀をもった「浅草御米蔵」である。現在の「蔵前」という地名は、ここに幕府の御米蔵があった事による。幕領地から収納する年貢や買上米を管理し、出納する倉庫を御蔵、御米蔵といった。大坂中之島や京と併せ三御蔵といわれた。鳥越山の丘を切り開いて墨田川を埋め立て36645坪(御府内備考27900坪)の敷地に67棟、354戸の蔵を造り、勘定奉行配下の蔵奉行が管轄、本所御蔵を併せておよそ50万石ほどが備蓄されていた。上流部分は「厩の渡し」下は「富士見の渡し」で結ばれ、舟入堀の4と5の間には「首尾の松」が植えられていた。対岸には、米蔵と同程度の広さをもつ、幕府建築資材置き場の「御竹蔵」がおかれていたが享保年間(1716~35)木場猿江に移転後、米蔵として利用された。周囲は堀が巡らされ、「本所七不思議」のおいてけ堀の舞台はここである・維新後は接収され、陸軍の施設として利用されていたが、大正12年、震災時では陸軍被服 で3万8千人余の人々が犠牲になった。

 この蔵に収納される米の多くは、旗本、御家人など幕臣の給米(切米)に充てられ、西側の町地には俸録米を扱う「札差商人」や米問屋が軒を並べていた。札差商人は「蔵宿」ともよばれ、旗本や御家人に代わって、年3回に分けて支給される、俸録米の受け取りや売却を代行、米100俵に対し金二分(一両=四分)手数料を受け取った。享保8年(1722)町奉行大岡越前により、1万数千人余の旗本、御家人を相手とする株仲間が公認された。札差の「札」とは俸録米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹に挟んて、役所の入り口にあるワラ束に指して、順番待ちをした事からこれを扱う商人を「札差」とよんだ。彼らはこの手数料稼ぎに留まらず、毎年困窮度が増す武士階級に対し、俸録米を担保に金融業にも新規参入した。法定利息は年15%、助成料の目的で3%上乗せして合計18%、この利率は寛政年間(1789~1800)まで続く。札差商人は明和から天明年間(1764~88)の田沼時代に多いに繁昌、「十八大通」などの粋人が横行、新吉原、歌舞伎などに金を循環させ、ある意味では、関西商人とは違った資金の使い方をし、江戸の文化の向上の一翼を担った。

 寛政元年に始まる「寛政改革」では、松平定信によって「棄尊令」発布。天明4年(1784)から寛政元年までの6年間の借金を帖消し、それ以外の分は利子を18%から6%までに引き下げられた。これにより札差商人は平均1万両以上の債権放棄を強いられ、閉店する店まで現れた。続く天保改革では天保14年(1843)、水野忠邦が「無利子年賦返済令」を発布、これまでの未払い金は全て無利子とし、元金の返済は原則20年賦とするものであった。これにより当時91軒の店の内、49軒が閉店している。究めつきは明治維新である。幕府の崩壊により、旗本御家人は俸録米を失い、新政府は旧幕臣の負債は、一切引き受けない方針をとった為、札差商人は倒産、廃業に追い込まれ、加えて、明治元年には蔵前一帯に大火事が発生、近代的経営に移行する店は稀で、没落に追い込まれていった。因みに、江戸札差商人の他にも、俸録米合計一万石であった、甲府在番(在勤)者相手の札差商人も、享保9年(1724)誕生している。

             




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