<江戸グルメ旅>大奥レシピと汚職
江戸城の主、将軍は朝六時に起床する。そこに仕える小納戸役は、用意の洗面具を持って控えの間に入り、将軍は膝をついて半屈みになりながら、顔は白木綿のヌカ袋で洗う。この間が約四半刻、それから袴を付けて仏間に入り、先祖に礼拝する。そのあとは御座敷に入って休息、お茶を飲み、これが済むと食事となる。食事は御膳奉行支配の下に材料を吟味、調理したものを器に盛り笹の間に運ばれるが、料理は常に10人分作られ、ここで先ず御膳奉行他2人が毒見、暫くして9人分が長い廊下を経て御錠口へ運ばれ、炭を入れた大きい炉で冷たくなったものは温め直し、それぞれの器に盛り付け、将軍の居間に運ぶことになる。居間でも2人の小姓が膳に箸をつけ毒見、しばらくしてから将軍が箸をつけた。このため作られてから本人の口へ入るまで、相当の時間を要し冷めきったものが膳に出された。また、将軍の食べた量は、健康管理のため、毎日記録されていた。
朝五つ(午前8時頃)に、飯、汁、野菜、煮物などが運ばれてくる。汁物は蜆や鯉こくが多く、魚料理は給仕の中臈が身をほぐして、骨を除いて出された。小骨の多い魚、当時下魚とされていた鮪や、庶民が好物の鰯、秋刀魚などは脂が多いとして好まれず、鮗(コノシロ)もこの城につながるとして、縁起を担いで避けられた。反面、鱚(キス)は、喜ばしいという字画から選ばれる事が多かった。また、避けられた食材は、鯰、泥鰌、鮒などの川魚や干し物類、牡蠣や浅蜊、赤貝など痛みやすい貝類などであった。毎月1、15、28日は、鱚に代わって鯛や平目のお頭付き、鰈や鰹などもついた。野菜類では、葱、韮(にら)、大蒜(にんにく)などの匂いのきついものは避けられ、同様の理由で納豆も敬遠された。動物性たんぱく質では、鶴、雁、鴨などの鳥類が食材として使用され、獣類では兎を鳥類として扱われていた。他の獣類は仏教の教えから敬遠されたが、庶民の間では「くすり喰い」として、栄養補給のための、隠れたレシピとなっていた。料理法は煮る、焼くが基本で、揚げ物は、家康が鯛の天麩羅にあたって命を縮めたとされている事から、レシピとしては使われなかった。真相は火事の発生の原因となることを恐れたためだと云う。
春期大奥ランチメニューの一例をあげてみると、蜆汁に鯛やゴチの焼き物、長芋とゼンマイの盛り合わせ、寒天や栗や慈姑(くわい)の金団などのデザート。八つ半(午後3時)には、御八つとして、羊かんなどがだされた。現在のおやつの語源である。暮六つの夕食では、鯉こくに鯛の刺身、鴨、雁、蒲鉾などの煮物に玉子焼きなどがついた。食べきれない料理は、当番の御女中たちが、ありがたく頂く事になっていた。因みに、将軍や御台所以外の、大奥の女中たちの食事は、多聞と呼ばれる炊事専門の下女たちが、炊飯、料理を担当、毎回各部屋に届けていた。高い素材を使う割には、それが生かされていなかった将軍夫妻の料理とは異なり、温かい新鮮な料理を楽しむことが出来た。
大奥の調理場は、御広屋敷御膳所にあり広さは約200坪、中央の板の間にかまどが6個置かれ、その後ろには大きな俎板が据えられていた。ここに御台所(みだいどころではなくおだいどころ)=調理人30人が働き、その下で賄い方40人が立ち働き、総勢140人程が、将軍夫妻の料理に従事していた。食材は賄頭が調達、魚介類は日本橋、野菜類は神田多町で一括購入されていた。日本橋魚河岸に御納屋を置き、頭の下にいる、手付と呼ばれる者14~15人が市場を見歩き、目ぼしい魚があれば「御用」と手鉤で引っ掛け、市場価格より法外な安い価格で買い上げていった。しかも、常に使用量の数倍を購入、その多くを使えないと跳ね除け、「宅下げ」として、それぞれの自己の家に持ち帰って、自家消費とした。市場関係者たちはこれを嫌い、事前に品物を隠したり、江戸の海から入った魚介類を日本橋魚河岸に卸さず、江戸橋を潜る手前で、日本橋川から紅葉川に左折、新肴場(新場)で荷を降ろして対抗した。野菜類も同じく買いたたかれたため、この損失分は多町の問屋仲間の頭たちが、分担して補填をしていた。
大奥の米は美濃米を使用、精米された米は大きな黒漆器塗りの盆にあけられ、5人掛りで一粒一粒より分けられ、欠けた米を取り除き、御膳所に納めた。米は白い程良いとされたため、とぎこまれ貴重なビタミンB1が水に流されていった。また、果物類も腐りやすいとして、見ただけで下げ渡されたため、歴代将軍の中には、「江戸患い」と云われた脚気に罹り死亡する者もいた。米も他の食材同様、購入した1割ほどしか使用されず、石が混じっていたとかで、故意に不合格分とされた米は勿論山分け、持ち帰って台所役人の余得となり胃袋に収まった。炊飯は先ず米をザルに移し、沸騰した湯の中に入れて煮る。炊くというよりも茹でるという感覚である。その米を更に釜に移して蒸して仕上げた。炊くというよりも蒸し米で、米が立たない寝たままの中途半端な、お粥的な米の香りが全くない蒸米が出来上がっていった。折角の厳選された上質の米が、単なるお粥もどきになっていった。以上の様に、時の権力者歴代将軍夫妻の食生活は、決して健康的で、尚且豊かなものではなかった。このように、米にしろ、魚介類にしろ、野菜類にしろ、全ての食材は品質の良さが生かされずに調理され、加えて計画的に余分に購入され、通常的に平然と収賄が行われていた。大奥予算の予算の何割かが、こうした汚職に使い方こまれ、既得権、役得が横行、大奥の女たちの浪費と同様、幕府財政を圧迫していき、やがて幕府崩壊へと繋がっていったのである。
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