「新平家物語」第1章、②平家滅亡

 18きっぷでゆく 大人の歴史浪漫

 我が国において、「姓」の代表的なものとして「源、平、藤、橘」の四家がある。平氏(へいし、たいらうじ)は、日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏のひとつで、50代桓武天皇の4人の親王の子孫が「平氏」を名乗った。家紋は揚羽蝶である。一般的に東国の源氏、西国の平氏というが、桓武天皇の子孫、高望王の流れをくむ東国平氏が、その後中央(朝廷)で勢力を伸ばし、西国でも平氏の勢力が広まったものと見られている。

 また「平家」という言葉は、本来数多い平氏の中の特定の家、集団を指す言葉でしかなく、平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」とよび、檀の浦での平氏滅亡という言葉は、厳密にはあたらない。本来の平氏である高望王流平氏は明治維新まで存続していた。その伊賀平氏の棟梁、平清盛は桓武天皇から6代続いた家柄で、「平家物語」では、後白河法皇が祇園女御に産ませた子が清盛であるとされている。この女御が子を産む前に、清盛の父忠盛に下げ渡され、そこで生れたのが清盛である。保元の乱、平治の乱に勝ちぬき、法皇の勝利に貢献した。治承4年(1180)福原(神戸)遷都を強行したが、源氏の動きが危うくなり束の間で還都、翌養和元年熱病に冒され死去、64歳。一方、清和天皇の流れをくむ「清和源氏」は、河内源氏の流れをくむ坂東源氏の頼朝が建久3年(1192)鎌倉幕府を開く。清盛が属した伊勢平氏を倒した頼朝であったが、わずか三代で妻政子の実家であり、桓武平氏の末裔である北条家が執権の座に座わる。元弘3年(1333)後醍醐天皇による鎌倉打倒を命じられた新田義貞、足利尊氏らは坂東源氏の流れをくむ武士団であった。室町幕府起立、応仁の乱を契機に戦国時代、平氏の流れをくむ尾張の織田氏から豊臣氏、江戸時代を創った徳川氏も系譜の改ざんもあって「氏」は不明である。因みに平家の落人という言葉は、伊勢平氏の子孫ではなく平氏に仕えた郎党の子孫をさす。先の織田氏や対馬の宗氏、薩摩の種子島氏、他に熊本の五家荘、富山の五箇山がある。

 今回の一方の主人公清盛一族の栄枯盛衰の物語が「平家物語」である。鎌倉時代に成立したといわれる軍記物語で、当初は「治承物語」と呼ばれていたが確かではない。「盛者必衰の理」とともに仏教の教えとなっている「この世の全ては絶えず変化していくものである」という「諸行無常」の思想のもとに書き進まれている。その構成は卷第一の「祇園精舍」から始まり十一「壇の浦合戦」十ニ「判官都落」灌頂巻の「大原御幸」「女院死去」で閉じている。この物語は義仲右筆(書記)の覚明と義経右筆の中原信康が書いた合戦記が採用されたものとみられており、「徒然草」の吉田兼好によれば、その作者は信濃前司行長なる人物が盲目の僧に教え、語り手にしたとしているが、これについては諸説ある。

 さて、一の谷、屋島、壇の浦と古戦場を巡る前に、清盛の援助により造られた海上社殿「厳島神社」に参詣する。祭神は天照大御神とすさのうのみこと、松島、天の橋立と並ぶ日本三景のひとつ安芸の宮島は広島県甘日市市の宮島(厳島)にある。ここへは山陽本線宮島口下車、歩いてすぐの処に宮島航路のフェリー乗り場がある。この航路、JR運営の航路もある為そちらを利用すれば18きっぷで乗れる。牡蠣と紅葉まんじゅうと鹿が名物で、干潮じは歩いて赤い鳥居まで行ける。長寛2年(1164)清盛始め息子重盛などが平家一門の人々が一巻ごとに結縁、写経した「法華一品経、平家納経」歴史的仮名遣いでは(へいけなふきやう)と読む、が神社に奉納されている。法華経30卷、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、清盛願文1巻の計33卷と経箱と唐櫃1合は平安時代に流行した螺鈿などを使った装飾品の最高峰をいくもので、現在国指定の文化財、国宝の絵画部門に登録、神社が所蔵その一部が一般公開されている。一般¥300也。この宮島から広島に戻って呉線に乗り換えると呉駅に着く。丁度広島湾を挟んで対岸に当たる処である。広島宇品港から出た松山行きフエリーは一度ここに寄り、多島美が素晴らしい瀬戸内海を横断していく。瀬戸の花嫁の世界が拡がる航路である。この本州呉市と倉橋島のの間が「音戸の瀬戸」である。「音戸」とは穏渡、穏戸とも書き、歩いて渡れる事を意味、「瀬戸」とは海の﨑を意味した。ここを厳島神社の参詣目的に清盛が永万元年(1165)拡幅、沈みかけた夕日を扇で呼び戻し、工事は1日で終わったとされる故事が残る海峡である。古来より瀬戸内航路は.摂津国難波津から九州大宰府をつなぐもので、この呉は「潮待ちの湊」で造船の町として発展、大和朝廷の遣唐使船や、先の大戦では戦艦大和を建造している。音戸の瀬戸にはJRからバス約25分、大和ミージアムも待っている。

 寿永2年(1183)2月義仲軍に京を追われた平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち、福原に前線基地を設け京都奪還を目論んでいた。平家追討の宣旨を受けた範頼、義経軍は三種の神器奪回を名目に「一の谷」をめざした。本隊の範頼軍は山崎から西国街道へ出て西宮から芦屋の海岸沿いに西にむかい福原、須磨にせまった。一方、義経がとったコースは京から北へ向かい、保津峡から園部へ向かい、丹波、篠山、たまたま三草山で資盛軍を敗退させ、播州平野へ下り、再び山路に入り鵯越えを目指した。平家を背後から襲うという作戦である。攻撃は2月7日早朝。ここで軍監が梶原平左景時から土肥実平に代わる。さらに義経軍に加わったのが「武士は重忠こそ第一」ともっぱら公家たちで評判の畠山重忠、その訳は「ヘイザヨ」あのような横柄、尊大な男から指図を受けたくないと云う。部下の手柄を自分の手柄とし、自分の裁量ミスを部下に充てがう上司は今も昔も変わらない。その点、義経という男は一方的な指揮をとり、手柄は自分の御蔭と広言、武勇の力も父義朝、叔父為朝、兄悪源太義平に劣るが、戦場でのスタイルがいいと重忠はいう。

 播州平野に出た義経は本隊を軍監に預け山陽道を向かわせ、自らは30騎で山間部へ入り一の谷の背後から平家軍を襲う計画にでた。一の谷までは約3里、従うのは郎党の他重忠、熊谷次郎直実、戦史に残る「鵯越」である。ひよどりは奥州では花喰い鳥という。義経は騎馬を戦闘集団ではなく長距離移動による奇襲集団として捉えた。その後の戦いでもこの戦法は用いられず、戦国時代、尾張の信長が今川義元を桶狭間で打ち取ったのもこの奇襲作戦である。明治になりあの「坂の上の雲」の世界で、秋山好古は騎馬軍団を結成、ロシア戦線で闘っている。「鹿も四足 馬も四足」はこの鵯越の際に発せられた言葉である。義経乗馬は「青海波」源氏随一の奥州馬、断崖から突然現れた源氏軍と街道からの軍勢に襲われた平家軍8から10万の軍勢は戦わずして、讃岐(香川県)の屋島に逃れていった。ここで踏みとどまったのが、清盛弟、経盛の子敦盛16歳であった。直実に呼び戻され討ち死にする。この時、直実の息子直家も同じ16歳、のちに直実は出家して高野山に登り法燃上人に仕え、敦盛を弔ったという。直実の出家の原因のもうひとつは、所領をめぐって梶原景時と言い争った為だという。どうもこの景時という男、煮ても焼いても喰えない男だったと見える、

 須磨寺(福祥寺、山陽電鉄徒歩5分)には敦盛が愛用したといわれる「青葉の笛」などが納められ、境内には二人が対峙している像が置かれている。また、源平合戦の戦いの場となった須磨浦公園には「敦盛塚」が祀られ、春ともなると約3,300本の桜が咲き乱れる。祭り関係者のかたに聞くと、ここに咲いている全ての桜が「敦盛桜」だという。一の谷での敗因は勿論、奇襲により戦わずして逃走した平家にあるが、もうひとつの大きな要因として、戦いの前日の2月6日。後白河法皇から平家側に停戦協定が示されたという。これを既成事実と受け止めた平家は何の戦闘準備をしていなかった。明らかに法皇の重大なルール違反である。それ以上に言葉による詐欺行為である。こうして源平両軍はいい様にもて遊ばれていく。ここは神戸市須磨区一の谷町、JR須磨海浜公園若しくは阪急、阪神と繋がっている神戸三宮から山陽姫路、網干を結ぶ山陽電鉄の須磨浦公園がアクセスがいい。ここからロープウエイ(歩いても30分程)に乗り鉢伏山に登ると、眼下の狭藍地にはJR、山陽電鉄、山陽道が並び、その向こうは瀬戸内の海をまたぎ淡路島に架かる明石海峡大橋が緩いカーブを描いて四国へのびている。東海道の由比より構図はいい。

 屋島へはJR岡山から瀬戸大橋線に乗り、坂出から予讃線に乗りかえ高松に向かう。さらに高徳線で栗林公園を越した五つ目が屋島の駅である。快速などでは岡山から「アンパンマン号」でそのまま高松へ着く。ここで腹ごしらえとして定番「讃岐うどん」を書き込まないと後は無い。このルートの他、大阪バスタから淡路海峡を渡り鳴門、徳島へ向かい高松築港の電停から琴電にのり、ことでん屋島で下り、共にシヤトルバスで山頂にむかう。海抜293mの屋島は瀬戸内海に半島状に突き出し、頂上の部分は平坦で屋根の様に見えるため「屋島」とよばれている。プラタモリ流に解説すると基盤は花崗岩、中腹から頂上付近は凝灰岩、その上を安山岩が載っていた。その安山岩が浸蝕され屋根型の台地になった。学術用語的には「メサ地形」とよぶ。この台地を利用して天智天皇2年(663)大和朝廷が整備した屋嶋城があり、南側に12世紀初頭からの「屋嶋寺」は四国第84番の札所である。島の東側は大きな入り江で平家の陣屋、安徳天皇社、那須与一駒立場、義経弓流し跡、その北側に敵は海上からと想定していた平家の船隠し場など、戦いゆかりの碑がならんでいる。面白いのは島の南側を流れている「合引川」でこの川の名、源平が引き分けた場所であるから、また、河口が両端にあり両方向に潮が引く為この名がついたとされる。

 宗盛を大将とした平家軍は屋島に内裏をおいて本拠とし、一方長門国彦島(巌流島)にも四男知盛を大将として拠点を置いていた。これにより平家は瀬戸内海の制海権を握り力を蓄えていった一方、源氏は水軍を保有していなかった為休戦状態がつづいた。こうしたなか、神器がないまま法皇は安徳天皇を廃し、弟の後鳥羽天皇を即位させた。これにより完全に平家と朝廷は決裂した。一の谷の戦いの後、範頼軍は平家の九州上陸を避けるため、山陽道を急いでいた。この年は飢饉の為遠征軍は飢えに苦しんでいた。軍議でもそのことばかりが議論され、万事休すの状態に、一の谷では戦功を無視していた頼朝は義経の起用を決めた。人間という者は身勝手な生き物である。義経軍は第2の奇襲作戦を敢行する。暴風雨の中5槽、150騎足らずで摂津渡辺津の湊から阿波国勝浦に1日と4時間で上陸、陸路を屋島めがけて陸路騎走屋島の背後に現れた。現在なら大阪湾南港から徳島港までフエリーで3時間30分である(欠航中)神戸港から高松港へのフェリーは就航している。またもや奇襲を受けた平家軍は海上から西に帆先を向ける。屋島の陥落で四国での拠点を失った平家は九州は範頼に封鎖され、彦島で孤立してしまう。義経は水軍を編成して、最後の決戦場、壇の浦へ向かう。

 屋島を逃れた平家軍は知盛が陣をはる彦島に合流、一方、源氏軍は海峡の奥、長府沖の千千珠島、万珠島あたりに陣をしく。今治の来島で、義経は檀の浦の潮流について船団を組んで経験させた。海上での戦いは奇襲法は通用しない、今回は正攻法でしか道はない。元暦2年(1185)卯の刻(午前6時)に早鞆の瀬戸(関門海峡)の渦潮の中で戦いが始まったとされる。平家物語によると源氏軍3千槽、平家軍千槽保有、午前中は潮の流れに乗って平家軍が優勢に戦さをすすめたが、午後3時頃潮の流れが反転、平家軍が逆に圧され水軍の裏切りもあって覚悟を決めた平家の武将達、女性達も相次いで入水、奢る平家は滅亡した。

 「あの波の下こそ 極楽浄土とてめでたき都の候 それに具し参らせ候ぞ」当年8歳になる安徳天皇を抱いた二位の尼(清盛正室)は三種の神器を携え、西方浄土に向かって海に身を投じた。敗因は関門海峡の潮流れをうまく利用した源氏軍にあるとされる。この根拠は大正3年の帝国大学教授による分析による。8:30西の潮流れが東へ反転、11:00頃は潮の流れは8ノット、5:00頃になると潮流れは西に反転、つまり下流れに位置した源氏軍が上流に立つ事により優勢になったとされる。しかし近年のコンピューター解析によれば、合戦の行われた日は潮の流れが早くなく、而も戦場となった早鞆の瀬戸は海域が狭く、合計4千槽もの船は入り込めないとしている。従って当時タブーとされていた源氏軍の船頭や漕ぎ手へ弓矢の攻撃によって、船の操縦を失った平家軍が敗走したとみられている。行き場のなくなった平家軍は海へ身を投げる他、道はなかったのである。治承、寿永の乱の最後の戦いは終わった。

 戦場となった現みもすそ川公園にはJR下関からバスで12分程、海が見えてくる手前で降りてウッドデッキの海岸沿いをしばらく歩くと右前方に本州と九州を結ぶ「関門海峡大橋」がみえてくる。その辺り左に竜宮城をモチーフとした、安徳天皇を祀る「赤間神5/2~4は先帝祭」がある。境内左側を進むと知盛などを供用する「七盛塚」小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の堂がある。みもすそ川公園には、義経の八槽飛びや知盛が碇を担いだ像が仲良く並んでおり、幕末「馬関戦争」で使われた大砲も並んでいる。ここでは紙芝居がお客さん次第で始まり、代金は無料、解り易く戦いを紹介してくれる。ここから九州へ歩いて渡れる関門トンネル人道はエレベターで約60m降り、380m進むと県境、ここから下関、和布刈神社の下まで400m、所要時間15分で関門海峡を渡る事が出来る。元旦早朝、この浦の和布を刈って神の供えるという神事がある、和布刈(めかり)神社からの檀の浦の眺めは抜群、神功皇后が三韓征伐で祈ったとい云われる歴史のある社で、松本清張の「時間の習俗」でも登場してくる。ここから海峡を右に眺めながらJR門司港駅に向かうコースも快適ハイキングコースである。しばらく進むとやたらレトロな洋館にぶつかる。維新から明治にかけての発展ぶりが伺われる。ここでのランチは御当地一押しの「焼きカレー」カレーにとろけるチーズをのせ、オーブンで焼いただけのものだと思えるが、トロっととけたチーズとルウが混ざり合い抜群のコンビネーションをだしている。鹿児島本線門司港駅は最近リフレッシュされ、レトロな佇まいがこれまたレトロな街にまっち(しゃれ)、駅員さんがこれまたレトロな制服着て、今どき振る呼び鈴をならしているのもいい。

 平家物語最後の章は「大原御幸」檀の浦から助け上げられた建礼門院(平徳子)は京、大原寂光院で亡き平家一門への念仏三昧で毎日を送っていた。ある日花を摘みに行ってる間に姑である後白河法皇が訪ねてきた。法皇は自己の利益の為、平家一門を滅亡に追いやった敵でもある。複雑な思いで「六道の沙汰」を語りだす。六道とは天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄のことである。おのれの人生をこの六道に例えて法皇に語りはじめた。空しい人生を振り返りながら女院はやがて死んでいく。

 次回其の参は、檀の浦で勝利した義経が鎌倉と決別、盛者必衰、平家と同じく都を追われ、奥州平泉、衣川で討たれるまでをお送りします。またまた乞う御期待。「江戸純情派 チーム江戸」 しのつか でした。

江戸純情派「チーム江戸」

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