18きっぷ版「新平家物語物語」第1章 ①
18きっぷでゆく歴史浪漫 <奢れる平氏の京をめぐる>
祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し
一般的に「源平合戦」とか「源平盛衰記」といわれるものは、清盛の娘徳子が産んだ安徳天皇の即位により、皇位につくのが困難となった後白河法皇の第3皇子以仁王が義仲、頼朝に平家打倒の令旨を出した治承4年(1180)から、平家が壇の浦で滅亡する文治元年(1185)3月までの、6年間にわたる内乱「治承・寿永の乱」の事を指す事が多いが、頼朝が鎌倉に幕府を開く、建久3年(1192)までを指す場合もある。この源平盛衰記を、18きっぷでたどる前に、清和源氏と恒武平氏が台頭、対立を始めた「保元の乱」あたりから、年譜をおってみる事にする。後白河法皇と崇徳上皇の皇位継承をめぐって保元元年(1156)平清盛、源義朝が後白河法皇側につき、勝利した戦いである。その4年後の平治元年(1159)戦後処理に不満を抱いた義朝が、反法皇派と内乱を起こしたのが「平治の乱」である。これにより源氏の棟梁義朝は横死、初陣に臨んだ頼朝(13歳)は池の禅尼の助命によって、伊豆の蛭ヶ小島に配流され、北条時政の娘政子と知り合う。この助命が平氏にとって大きな禍根を残す事になる。常磐御前の子牛若丸は当時1歳、鞍馬寺に預けられた。
治承4年、6月清盛「福原(神戸)遷都」強行、11月、還都。8月、令旨に応え頼朝伊豆に挙兵「石橋山の戦い」で惨敗、大和武尊が弟橘姫と渡ろうとした「走水」から上総に逃げる。9月、義仲木曽で挙兵、10月、「富士川の戦い」は、水鳥の羽音で平家軍が敗走、頼朝の不戦勝となる。養和元年(1181)清盛熱病により没、64歳。この年は諸国で大旱魃が起きている。寿永2年(1183)5月、「倶利伽羅峠の戦い」義仲上洛。7月、平氏西走。義仲わずか5ヶ月で京を放棄、元暦元年(1184)1月の「宇治川の戦い」で、義経軍に敗れ粟田で戦死。31歳。2月「一の谷の戦い」、文治元年(1185)2月「屋島の戦い」3月「壇の浦の戦い」で、安徳天皇入水、平家一門滅亡。文治5年(1189)義経衣川で死す。31歳。建久3年(1192)鎌倉幕府開府。これを踏まえて、今日は「奢る平氏の京」と題して,源氏、平氏のゆかりの地を散策してみる事にする。
牛若丸(義経)が入山、16歳の頃迄過した「鞍馬寺」は「唐招提寺」を建立した鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を祀る草庵を結んだのが始りとされる。京都三大火祭りのひとつ由岐神社の「鞍馬の火祭」が行われ、60年に1度、鞍馬の三尊天が公開される。また「枕草紙」「源氏物語」「更科日記」など女流作家の作品にも登場している。ここへ向かうにはバスもあるが、JR京都駅から「奈良線」に乗り換え東福寺、ここから「京阪本線」で出町柳へ向かう。ここは「加茂川」と「高野川」の合流デルタ地帯、「鯖街道」の京側の出入口であった処、出町柳から「叡山電鉄」で終点鞍馬下車、ケーブルに乗りかえていよいよ鞍馬山登山となる。約10分程で本堂、さらに進むと牛若丸が修行したと思われる、山の地質が硬いため、杉の根が地表をはっている「木の根道」にぶつかる。更に山道を登り降り水の神様「貴船神社」に着く。貴船川を利用した川床料理もいいが、この神社縁結びの御利益もあり、泉式部も元夫との復縁を果している。と云う事は一度離れた妻が出戻った形となる。現代は平安時代をリメイクしている。こうした事情でやたらギャル達や出戻り組?の団体が多い。ためか階段に並んだ赤い鳥居も艶ぽくみえる。因みに、悪縁切に御利益のある寺は、京都東山区にある崇徳上皇を祀る「安井金比羅宮」、こちらも併願するといろいろと事情が好転する可能性があるかも知れない。
牛若丸と弁慶が出会ったのは、京の五条の橋の上ということになっているが、実際は坂上田村麻呂が創建した「五條天神社」と「清水寺」だとされる。「五条大橋」が架けられたのは秀吉の時代で、方広寺大仏殿の造営にあたって架けられれ橋のため、平安末期にはここには無かった。では何故出会いが橋の上になったか?御伽草紙や謡曲「船弁慶」には、五条の橋が登場、小学唱歌の詞と当時の義経伝説がブレンド、歌詞が創作され、舞台は京の五条の橋の上となったとされる。映像的にも橋の上の方が絵になる。鴨川沿いに上ると祇園四条になる。対岸は舞妓が泣いて別れる「河原町」である。四条通りを東に進み「八坂神社」の朱色の門を潜れば春には枝垂れ櫻が見事な円山公園となる。春の宵、艶やかな凬にそよがれての宴もいい。ここお右におねの道を進むと北政所おねが秀吉の菩提をともらうために建立した「高台寺」庭園は小堀遠州の作である。このお寺さんのガイドによると、従来通り「ねね」で通しているという。ここから少し右に進むと祇園のランドマーク「八坂の塔」が見えてくる。飛鳥時代に創建された臨済宗法観寺の五重の塔の高さは46mと東寺、興福寺に次ぐ高さがある。寺法によると、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより塔を建て「心柱」の礎石の溝には「仏舎利」が三粒納められているという。東大路通から入った坂の下からの塔が絵になる。ちょい昔までこの坂の左に湯葉屋さんがあって、割り箸で絡めた湯葉を食べさせてくれた。お店の方は湯葉のミストで綺麗な京肌をしていた。さあ、よそ見をしないで三年坂から清水坂を上ると、平治の乱の後、義朝側室の常盤御前が三人の子供たちの無事を祈願した千手観音(子安塔)がある「清水寺」に着く。常盤はこの後、坂を下り「六波羅」にある清盛の屋敷を訪ね、3人の子供を護るため清盛の側室となり一女を設けている。さて、広隆寺や鞍馬寺と同じく奈良時代後期創建された清水寺は山号「音羽山」本尊は十一面千手観音菩薩,「石山寺」や「長谷寺」と同じく観音霊場である。標高242mの清水山の中腹に石垣を積んで多くの寺院が立ち並んでいるが、本堂は寛永10年(1633)三代家光の寄進によって再建されたもので、山の斜面に着き出す様に建てられたいわゆる「清水の舞台」は139本のケヤキの柱が1本の釘を使わずに舞台を支えている。このような構造を「懸造」「舞台造」といい、観音経の所説に基づくものである。
見るだけでも楽しい清水坂を下って東大路通を渡り、やや左側へ進むと「六波羅密寺」がある。天慶五年(951)空也が「西光寺」を建立、後に中信がこの寺を六波羅密寺と改名したことから、五条大路から七条大路にかけて(現在の東山区松原町付近)の一帯を六波羅と呼ぶようになり、平安末期、清盛の邸宅を中心に平家一門の屋敷5200余戸が集住、平家の政権は六波羅政権といわれた。六波羅密寺は真言宗の寺院で本尊は十一面観音、寺号は仏教の教義「六波羅密」という言葉に由来、この言葉は悟りの彼岸に至るまでの財施、努力、忍耐などを重ね、「般若波羅密」を希求し成就される六つの修行徳目を指し、六度彼岸、単に六度ともいわれている。鎌倉時代の承久3年(1221)の乱後、清盛の屋敷跡に朝廷を監視するために幕府の出先機関「六波羅探題」が置かれている。さて平家の六波羅密寺を参詣したら、次は源氏が代々屋敷を構えていた「六条堀川」に向かう。ここは現在の下京区掘川通り五条下ル西側になる。位置的には西本願寺の北側にあたる地域に源頼家、義家、為義、義朝、義経らが、ここから戦場に向かっている。「保元の乱」では為義が、「平治の乱」では義朝が討って出、また、義経の代になって頼朝の命を受けた土佐坊がこの地の館を襲うが失敗、これより後白河法皇もからみ、頼朝と義経は本格的に対立していき「判官都落」に繋がってゆく。
洛西、「嵯峨野」はJR京から「山陰本線」乗り換えて進むが、このホーム他のホームと離れた下の方にあるため時間のゆとりが必要だ。二条城前を通り太秦の次が嵯峨嵐山、ここから10分ほど歩くと「天龍寺」の門前に出る。この他にも「嵐電嵐山本線」が渡月橋からの通りにあり、「阪急嵐山線」も渡月橋を渡った側に駅がある。嵯峨野は小倉山の東、太秦の西、愛宕山の南、桂川(保津川)の西に囲まれた広い地域の名称で、慶長11年(1606)角倉了以が保津川を改修して、大堀川を築いたことにより、丹波と京をつなぐ、水運の要所となっている。ここの石高は2400石、門跡領と公家領との相給となっていた。竹林から下りて落柿舍の路を化野念仏寺へ向かう左側には、階段の紅葉が見事な「常寂光寺」「ニ尊院」と続き、次なる寺院が「祇王寺」、真言宗大覚寺派の仏教寺院、かって清盛に愛された白拍子の祇王(21歳)が若い仏御前にその座を奪われ、母と妹と三人で暮らし始めたのがこの祇王寺である。後にいずれ我が身と悟った仏御前も加わって4人で念仏三昧の余生を送ることになる。諸行無常、女平家物語の世界である。秋も深まると周囲を埋めた緑の苔の絨毯の上に朱色の楓の葉が舞い落ちる。
番外編は「宇治川の戦い」の前に、義仲が世に出たきっかけとなった「倶利伽羅峠の戦い」である。越中と加賀の国境にある砺波山での義仲vs平惟盛の戦いである。平氏がニ手に分かれた一方の7万の軍勢の陣地に夜半、義仲が仕掛けた火牛が襲い峠の断崖、地獄谷に追い落され壊滅、義仲はこれに乗じて上洛、都を占拠した。これはあくまでも仮説で、古代中国の戦法では牛の角の刀、尻尾に松明えをつけた戦いがあるが、生きてる牛の角に火を灯す事は不可能だとされている。兎に角勝った義仲軍は統制のとれていない軍勢であったため、京の民から疎んじられ、後白河法皇も何とかこの木曽の猿をなだめようと、武門の棟梁である征夷大将軍にまつり上げた。名を朝日大将軍という。こうした位を授けて相手を懐柔するノウハウを公家内では「位打ち」という。倶利伽羅峠へ行くには、すこし前まではJRの青春18きっぷで堂々?といけた。現在は第3セクターで金沢から倶利伽羅峠までが「いしかわ鉄道」泊までが「あいの風とやま鉄道」さらに直江津までは今度は「えちごトキめき鉄道」と目まぐるしく変わる。因みに金沢から倶利伽羅峠まで¥360、ここから会社がかわるから石動(いするぎ)までひと駅¥230で〆て¥590となる。どんどん18で使えた路線が第3セクターに代わりか路線廃止となって淋しい限りである。別料金を払って石動から北陸古道か、ふるさと歩道を約90分程歩くと標高266mの峠の不動尊に着く。芭蕉の句碑が建つ。「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」春遅い砺波地方に八重桜が咲くころがこのハイキングコースにはベストシーズン、花好きならこの地のチューリップ、グルメなら富山湾のホタルイカ、自然派なら富山湾からの後立山連峰がいい。
義仲が上洛したのが承永ニ年(1183)の3月、「宇治川の戦い」が翌3年の1月京の官と民から疎んじられ、わずか5ヶ月の朝日将軍は義経、範頼の連合軍に追われ、京七口のひとつ宇治川に逃れる。ここで待ち受けていたのが義経軍、巴御前の奮戦もむなしく「粟田」の深田に馬の脚をとられ討死、31歳。芭蕉の墓もある「義仲寺」は大津市南部、現在の地名は大津市晴嵐2丁目。粟田は膳所から瀬田あたりまで松並木が拡がり「近江八景」のひとつ「粟津の晴嵐(せいらん)」でもその様子が伺われる。また、戦いの舞台となった「宇治川」の源流もこの辺りで、「JR琵琶湖線」瀬田若しくは膳所下車、「瀬田の唐橋」より琵琶湖南端から流れ出す「瀬田川」が京都に入って宇治川(約25㌔m)と名を変える。さらに「木津川」「桂川」を合流して、全長75㌔mの大河になって、大坂湾に注いでいるのが「淀川」である。ここの名産は「宇治茶」訪ねる史蹟は勿論、鳳凰が翼を拡げたといわれ、源平合戦の引き金ともなった「宇治の平等院」である。
さあ、今回の京巡りは如何でしたでしたでしょうか?京の味覚のおもてなしもせずに失礼をばです。さて、次回はいよいよ 源平合戦ハイライトコース「一の谷」「屋島」「壇の浦」と巡っていきます。次回も御楽しみにです。「江戸純情派 チーム江戸」でした。
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