18きっぷでゆく「新平家物語」第2章判官都落①
元暦二年=文治元年(1185)3月、「もはや平家は平らげ了んぬ」この報が鎌倉に入った時、関東、東海の利益の代表である頼朝は、義経を討とうと決心した。「功烈、主ヲ震ワス者ハ、スナワチアヤフシ」と考えた。義経を誅殺する、これは決まった。しかし、どう殺すかは頼朝以下、鎌倉の家来たちは文官で、こう云う事には全く無能な集団であった。
「一の谷の戦い」の後、義経は後白河法皇から検非違使・左衛門尉、続いて従五位下・大夫判官の地位を与えられた。法皇の位打ちは「殿上人」を意味し、昇殿を許された。以降、義経は「源ノ判官義経」となる。これら一連の行為が頼朝を激怒させた。自分のすべき行為を、頭越しに他人(法皇)にされて、自尊心が傷つけられたのである。頼朝は鎌倉においての頼朝であり、平家のように京の公家に成り下がったら、坂東武者に身限られ、その地位を無くす。場合によっては殺されるかもしれなかった。頼朝は義経の猟官を憎んだ。自分の頭の片隅にあった願望を、義経が難なく叶えてしまったからである。自分の手のひらの上で、互いを戦わせ自分の思うままに双方を利用して、自己の満足を得ようとする法皇によって、源氏は平家と同じ様に滅んでいくと頼朝は考えた。やすやすと「位打ち」にあい、法皇の子飼い者になり下がっている、政治的配慮に疎い、義経を京源氏に仕立て上げ、鎌倉源氏のわしと戦わせ、自己勢力の拡大を図ろうとしている法皇(大天狗)がいる限り、その手先、義経を討たなければ、鎌倉幕府は成立しないと考えた。これは、坂東武者の共通した考えであった。頼朝は京に使者を送り「今後鎌倉に忠を成さんとする者は、義経に従うべからず、従う者は罪人として扱う」との文書を、梶原景時や範頼など西国一帯に廻した。これは明らかに義経に対する敵対意識の表明であり、その人間が正当に評価されるのを、恐れての防衛策である。頼朝のこの冷酷さ、狭量さが、鎌倉幕府の負の遺伝子、近親相剋を生み、直系の幕府を短命に終わらせ、執権政治に代わる事になる。
こうした兄弟が対立し、溝が深まっていくには、諸々の要因が重なってくる。いわゆる複合汚染の原因は、①先ず大きな要因として、父義朝が「保元の乱」で破れた後、義経が鞍馬山から、金売り金次にともなわれていった平泉は、陸奥(みちのく)で藤原三代が、独自の政権と文化を築いていた。三代当主秀衞は義経のよき理解者であり、支持者であった。全国制覇を目指している頼朝にとって、義経と同時に後ろ盾、秀衞の存在は大きな脅威であった。②次に考えられるのは ②異母兄弟の意識、スタンスの違いである。義経は黄瀬川の対面から、兄頼朝を兄弟として見てきたのに対し、頼朝は一貫して、義経を部下の一員として見てきた。従って、余り空気を読まない、独断専行の作戦をたて、それが勝利に結びついた義経の行動が、司令官である頼朝にとって腹立たしい事であった。それが、更に軍監梶原景時の懴言によって増幅されていった。③また、意志の疎通に欠けていた事も大きな要因となっている。義経側にも鎌倉との太いパイプを持つ人間がいなかったせいもあるが、頼朝側にも景時に代表される様に、自己の安定、勢力拡大を目論む輩の取り巻きで、平家追討で戦った兵士たちが正当に評価される機会が数なかった事による。この流れは幕府が確立されてからも続く事になる。この事はその組織にとって、致命的な事であった。
義経は捕虜の護送と自身の釈明の為、文治元年(1185)5月、相模国鎌倉へ向かった。酒匂の宿に現れた北条時宗は、捕虜を受け取り、そのすぐ後の使者の言葉は「左右ナク鎌倉ニ参ズベカラズ、シバラクソノ辺ニ逗留シ、召ニ随フベシ」であった。その辺とはその辺である。一の谷、屋島、壇の浦と平家を討ち滅ぼし、何の憂いもない源氏の世界に導いた、義経への言葉がこれであった。義経は鎌倉まであと一里、江の島が見える腰越まで進み満福寺に入った。(満福寺は江ノ電腰越駅から徒歩6分)足掛け10日の間、兄頼朝からの沙汰を待った。腰越は昔から罪人を処刑した淋しい場所であった。腰越で、義経は弁慶に泣訴状を書かせた。世に云う「腰越状」である。「吾妻鏡」によれば、元暦二年、五月二十四日条となる。宛名は公家より頼朝の側近となった大江広元、この広元からの音読を聞いた(自分で目を通した訳ではないから文字間の情愛は伝わってはこない)頼朝の応えは「拙」、現代語に直訳すれば、「つまらない、馬鹿馬鹿しい」江戸っ子的に訳せば「チェ(舌打ち)」である。聞く側の狭量さと、利に聡い取り巻き(広元は握り潰したともいわれる)によって、「腰越状」は一枚の紙切れとなってしまった。「その恨み、すでに古の恨みよりも深し」吾妻鏡、八月九日条。失意の義経一行は、鎌倉を発って京へ向かった。悲しみが恨みに変わるには、さして時間はかからなかった。行基の創建である満福寺には、現在でも「腰越状」の版木と草創が残されている。
さて、当時の日本を、中国古代の三国時代に例えるならば、義経の作戦、戦闘が、歴史が伝えているように、確かなものではなかったと仮定して、鎌倉にも義経に代わる武士がいないものとして、平家(呉)は檀の浦で滅亡せず存続、瀬戸内から九州にかけて、その勢力を保っていたであろうと思われる。また、陸奥では藤原氏(魏)が勢力を維持し固めていた為、間に挟まれた頼朝(蜀)は関東、東海辺りの領土に甘んじていた可能性もある。蜀には諸葛孔明という軍師がいたが、支える部下が少なく、二代で国は滅亡した。
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