判官都落・義経千本櫻②京から雪の吉野山へ

 「京に聊か聊かの煩ひもなさず、追風もたてずにして下りけり」平家物語 卷第十ニ、義経は文治元年(1185)九州諸国の惣地頭に捕され、都を退いて西国行きを決め、11月3日未明九州に新天地を求め、都を落ちて行った。「義経軍ノ所行実ニモッテ義士トイフベキカ」かって平家や義仲が都落ちする際は、略奪、放火、天子や法皇を連れ去ろうとした。しかし義経はそれをしなかった。彼は、自らの一党のみを引き連れて都を去った。この行為が都人の心情を良くさせた。この行為が死後現代に至るまで、義経が英雄であり続けさせている。人間引き際が大事である。この義経都落の前、宮廷内は慌しかった。10月、義経は後白河法皇に奏上、頼朝追討の宣旨を出させるが、思う様に兵が集まらず挙兵を断念、次いで幕府が義経追討軍を京に送ると、法皇は逆に義経追討の院宣を下した。朝廷は常に勝つ側につき、強者を支持していくのが、王朝の伝統でありしきたりであった。「朝に変わり夕べに変ず、ただ世間の不定こそ悲しけれ」と平家物語は記している。

 摂津大物ノ浦(尼崎)を出航した船は暴風雨に遭い、義経の船は打ち返され、河内を転々としたとも、吉野山へ入った時は4人ともいわれた。吉野山はシロヤマサクラを中心に、約200種、3万本のの櫻が、下千本から奥千本と尾根から尾根へ、谷から谷へと山肌を埋め尽くす。4月上旬から下旬が見頃であるが、櫻の後は紫陽花、新緑と楽しめる。18きっぷ徹底利用なら、京都から都路線快速で奈良まで走り、奈良から関西本線で王寺、そこから和歌山線で吉野口に着く。桜井線を使い高田で乗り換える手もある。時間のある方は、大阪から阪和線で和歌山、ここより和歌山線で吉野口へ向える。このコースは、右座席進行方向に座ると、暫く摂津の青い海が楽しめ、堺など歴史ある街を通過する。和歌山でランチ、今度は義経一行が彷徨した吉野、熊野の山中をぬって吉野口へ着くという、海、山の景色が両方楽しめるコースとなっている。一般的には京都から近鉄特急に乗り、終点からバスかケーブルで山中を目指す。名物湯葉を食べながら奥千本まで進むと「願わくば 花のもとにて春死なんその望月の如月のころ」と自分の死に場所を詠った、北面の武士西行の庵がある。少し戻れば佐藤忠信が矢を射かけた花見櫓展望台、静が迷い込んだ修験道の根本中堂、金峯山蔵王堂である。源平合戦の勝者が追われる身になり、敗者が怨霊となって花の吉野山で襲いかかる、幻想と歴史浪漫「義経千本櫻」の世界がそこにあった。

 高野山は女人禁制、弁慶は静の同行を拒んだ。二人は一宇の堂に5日間こもり、その名残を惜しんだ。「判官思い切り給うときは静思い切らず、静思い切るときは判官思い切り給わず、互いに行きてもやらず、帰りては行き、行きては帰りし給いけり」であったという。これが二人の今生の別れであった。断腸の思いで義経と別れた静は、旧暦11月半ば、小雪の舞う吉野山で一人山中に迷った挙句、金峯山蔵王堂に辿り着く。蔵王堂は秀吉、秀長の再建で木造建築では高さ34m、奈良東大寺大仏殿に次ぐ。本尊は三体の蔵王権現(釈迦如来、像高7m28cm、千手観音、弥勒菩薩)が祀られている。静を返した義経一行は山伏に姿を変え山中に踏み入り、一方静は吉野の衆徒に捕えられ、京の北条時政のもとへ送り届けられた。白拍子、静(16歳)は他の貴族の娘と違い、打てば響く頭脳をもっていた。加えて一芸に秀いている者がそうである様に、義経に対しても毅然とした態度をとった。歌を詠ませれば味わい深く、舞を舞わせれば雅な姿態をみせた。無学な義経にとって、静の一挙一動がが新鮮で心地良く、体内に引き込まれていった。母の磯の禅師(32歳)は云う。白拍子ほど女性の生き方として、素晴らしいものはない。この世の女は人の妻となり妾となり、その一人の男の無理ざまに生き、自己の意志を殺し、食べるだけの生活をし、やがて老いて男の心を失っていく。それに比べ自己の芸に生き、誰にたよる事なく自立した生活を送れる。これほど素晴らしい職がありえようかと。お前は何故、義経のもとにいる。それが磯御前にとって腹立ちしかった。白拍子とは、もともと管弦の伴奏なしで、手を打ちながら歌う、という事柄を意味する。後に白い水干を着て舞う様になった事から、こう呼ばれる様になったといわれる。静が世に認められるのは、都に続いた100日の旱(ひでり)で、法皇は100人の白拍子を集め、雨乞いの舞を舞わせたが雨は降らなかった。最後の100人目の静が舞うと、雨が俄に降り始めたという。法皇は静に第一人者の称号を与えた。

 母の磯禅師と共に、京から鎌倉へ送られた静は、義経の行方について、更に厳しい尋問を受けたが、静とて予想もつかず、義経の消息は依然解らずじまいであった。4月8日、前から頼朝妻政子の、強い要請に抗し切れず、静は鎌倉八幡宮の回廊に立ち、義経を慕う舞を演じた.。工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子を打った。「吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 後ぞ悲しき」次いで「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもなが」吾妻鏡によれば「まことにこれ社檀の壮観、梁塵もほとほと動きつべし。上下皆興感を催す」とある。自分の大事な人間を落としめ、追いやった頼朝への女の意地であった。激怒した頼朝は、頭の上がらない妻、政子に宥められ、その場は褒賞をあたえたが、ほどなく生れた静の子供は男の子であった為、由比ヶ浜に捨てられた。またも、静にとって地獄の思いであった。その後、静は出家して仏の道に入り、京嵯峨野の奥にあった一宇の堂に移り住み、ひっそりと生活していたが、1年ほどして20歳の若さで、亡くなったといわれている。


 



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