判官都落 ③安宅の関から奥州平泉へ
静が鎌倉で義経を慕いながら、宿敵頼朝の前で白拍子を舞っていた頃、義経一行は吉野山から何処へ、逃避行を続けていたのであろうか?吉野山から平泉へ向かう想定ルートをいくつかあげてみる。①ここより大坂湾へ出て、瀬戸内海から平家を滅亡させた檀の浦(関門海峡)を渡り、北上する海上コース ②内陸部を歩く東山道コース ③太平洋沿岸を徒歩若しくは海上コース ④若狭から日本海沿いに北上する北陸コース等が考えられる。先ず、③は鎌倉がある為最も危険である、②体力的にも時間的にもロスが大きい。①も楽そうであるが遭難や発見されるリスクがある。以上を踏まえて「チーム江戸」が考えた、多分そうだった劇場で、一般に物語られている「北陸ルート」を、伝承を追いながら辿っていく事にする。因みに「判官」は通常では「はんがん」と呼ばれるが、伝説記や歌舞伎では「ほうがん」となる。
吉野山で彷徨する前後、義経一行は南都(奈良)や京に潜伏していたものと思われる。春まだ浅き頃、斑鳩の里を訪れると蓮華の絨毯が旅人を迎えてくれる。まさに「天平の甍」の世界である。勧修坊たちが義経を匿ったとされる「興福寺」は、藤原氏の氏寺である。阿修羅像でお馴染みの興福寺は、和銅3年(710)藤原不比等が飛鳥から平城京へ移転したという。治承4年(1180)平重衛によって焼き打ちされ、僧坊は殆ど灰塵にきしたが、鎌倉時代は大和守護職の実験を握り、大和一国を支配した。氏神である「春日大社」は春日原生林、三笠山麓に朱色に彩られ佇んでいる。ここに義経が残した古文書や遺品が残されている。奈良へは18きっぷならJRみやこじ線、京阪なら奈良公園、東大寺などへのアクセスもいい。「仁和寺」は、京都市御室にある真言宗御室派の総本山である。御室御所と呼ばれる様に皇室との縁が深い寺である。仁和2年(886)光考天皇の創建とされ、年号を寺名としている。ここは京都駅より金閣寺へ向かい「きぬかけの道」を、石庭の竜安寺などと巡るのがお勧めである。最澄が開いた天台宗の総本山「比叡山延暦寺」は、平安京の北にあった為、南都の興福寺に対し「北嶺」とも呼ばれ、高野山金剛峯寺(空海)とならんで平安仏教の中心的存在であり、最盛期には寺社が3千を越えたといわれる。また、比叡山は法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など新仏教の開祖など多くを輩出、「日本仏教の母山」とも称されている。また、その財力と武力により、時代時代の権力者を無視出来る、独立国のような力を持つようになっていた。武蔵坊弁慶も元は比叡山の僧、夜な夜な山から京の町まで降りてきて、酒を飲んだり悪さをしたという。五条の橋の上の牛若丸(義経)との出会いも、この辺から生まれたと思われる。「吾妻鏡」や「玉葉」にによると、義経都落の後、比叡山の悪僧たちが一行を庇護せたと伝えている。山へのアクセスは、京からなら京阪出町柳から叡山電鉄に乗りケーブルへ、近江からなら浜大津から京阪石坂線(路面電車)で坂本下車、眼下に琵琶湖を一望出来るケーブルで山を登る。叡山坂本の町は、加工を施さない自然石を組み合わせた「穴太積みの石垣」があちこちで見られ、この工法は全国の城でも用いられている。
6、7月頃、奈良、京都の寺々で匿まわれていた義経一行は、坂本から船で琵琶湖を、若しくは鯖街道(湖西線)を使い、湖北、余呉から若狭へ出たものとされる。敦賀から「安宅の関」があるJR小松へは、福井、加賀温泉と「北陸本線」を使う。駅からバスで15分、日本海側へ向かうと、守護冨樫が設けた歌舞伎十八番の舞台、安宅の関所に着く。義経記では「安宅の渡し」謡曲では「安宅の図」の記載のみで、ここに実際に関所があったかは定かでない。「勧進帳読み上げ」「山伏問答」、なんば歩きを基本にした「飛び六法」等で人気のある勧進帳は、延宝11年(1840)七代市川團十郎により、河原﨑座で初演、以後話しの展開や短時間で終わる事などから、「仮名手本忠臣蔵」とともに人気を博し、安宅の関をもじって。またかの関とも、呼ばれている。無事、関所を通過した義経一行は、平家追討のきっかけのひとつにもなった「倶利伽羅峠」(北陸本線石動下車)で、義仲を偲び、能登半島の東の付け根「雨晴海岸」で疲れをとった。ここは江戸日本橋にある「照降町」に似た地名であるが、雨が降っている間、岩か影で晴れるのを待ったといわれる。富山湾から良く晴れた日は、海上に後立山連峰が浮かぶまさに富山随一のビュースポットである。ここへは、18で行くなら「北陸本線」の高岡から、「氷見線」に乗り換え蒲鉾と蛍イカが美味い、氷見の手前雨晴で降り、歩いてすぐである。雨晴海岸から、ふたつのコースが考えられる。ひとつが、親不知を避け日本海沿いに船で鼠ヶ関まで行くコース、もうひとつは「医王寺」に寄るるコースである。これもやはり新潟辺りまで船で北上、ここから現在なら「磐越西線」で郡山、ここより「東北本線」で福島、若しくは「米坂線」で米沢、「奥羽本線」で福島へ向かう。平泉から義経に従って戦死した佐藤継信、忠信兄弟一族の菩提寺「医王寺」は、福島交通飯坂線医王寺前駅から歩いて15分のところにある。藤原氏の一門であり、飯坂地方を治めていた佐藤一族であるが、平家追討で戦死した兄弟の母親を、それぞれの妻(楓、若桜)が、武者姿に扮装して慰めたという逸話が残されている。「笈も太刀も さつきに飾れ 紙のぼり」芭蕉。佐藤兄弟の母や嫁たちと別れを惜しんだ、義経一行はこの後、蔵王連峰を越え奥羽山脈沿いに鳴子、尿前の関に向かったと思われる。
もうひとつのコースで、義経一行が船から降りたった場所は、新潟県と秋田県の国境の町、鶴岡市南西部に位置する鼠ヶ関、弁天島である。JRの無人駅である鼠ヶ関を降りるて左へ折れると「古代関所」跡が残っている。ここは「白河の関」「勿来の関」とならんで、古代陸奥の三古関である。元和8年(1622)庄内藩主として入部し、幕末まで領地替えのなかった、譜代大名酒井氏により、駅北側に移転以降、「念珠の関」と表記されている。親潮にのったイカや海老、ハタハタなどの海産物が豊富な鼠ヶ関の町は、夏になると砂浜で海水浴が楽しめる。鶴岡市観光協会によると、安宅の関はここだと云う。その根拠は、この町に義経の矢立て、扇、般若心教が残されている、また、この地には関守と同じ、冨樫姓の方が多く住んでいるからだという。
義経一行がこれからの武運を祈願した修験道の山、羽黒三山は、羽黒山、月山、輸殿山の総称である。昔から西の伊勢参り、東の奥参りと呼ばれ、会津や平泉と共に仏教文化の中心であった山である。一般コースは「羽越本線」鶴岡より庄内交通バスで35分、随神門で下車、先ず目を見張る事は、樹齢何百年も越した、500本以上の杉の老木が立ち並んでいる。その中でも一際目立つのが推定樹齢千年、胴回10mある「爺杉」、数年前まで「婆杉」もあったという。この先に建つのが将門が創建した高さ29mの五重塔、何も塗らず釘を使わずの杮葺きの塔である。夏はライトアップされ、幻想的な佇まいを見せてくれる。山頂までの石段は2446段、一の坂、二の坂と登っていく。二の坂は別名「油こぼしの坂」弁慶が余りの勾配に、奉納する油をこぼしてしまった。弁慶「失敬しました」。山の坂から、縁結びの「埴山姫神社」の石段を数分登ると、羽黒山頂上「三神合祭殿」である。ここから月山八合目までゆくバスが夏場運行されているが、令和の旅人が平成の終り頃訪ねたのは、まだ8月半ば頃であったが、すでに月山山頂付近は初雪が降り、運行は停止されていた。「雲の峯 幾つ崩て 月の山」「語られぬ 湯殿にぬらす 袂哉」芭蕉。
鶴岡から「羽越本線」で余目へ向かい、ここで「陸羽西線(おくのほそ道、最上川ライン)」に乗り換えると終点は新庄、ここから更に「陸羽東線(おくのほそ道、湯けむりライン)に乗り換えると「鳴子温泉」に着く。「医王寺」から来たコースと合流する。駅前からは湯煙りが見え、湯の町に来たという感じになる。鳴子の地名は、逃避行の間、亀割峠で生れた義経夫婦の女の子が、ここで初めて泣いたから、泣く子が転訛して鳴子になったという。また、紅葉で人気のある鳴子峡の手前にある「尿前(しとまえ)の関」も、女の子がここで初めて尿をしたから、この名があるといわれている。この関は宮城から山形に至る、出羽仙台街道にあたり、ここで奥羽山脈を越える。元禄2年(1689)芭蕉は通行手形を持っていなかった為、越えるのにさんざん苦労したという。「蚤虱 馬の尿する 枕元」芭蕉。この関を越えれば奥州平泉はあとわずか、藤原秀衛が待っていると義経主従は安堵した。
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