判官都落 ④義経から成吉思汗へ
都を後にして義経が目指した平泉は「陸奥」の中心であった。陸奥はかって存在した分制国のひとつで東山道に面し、みちのく、むつ、りくおうとも呼ばれた。古は蝦夷であった土地に、大和朝廷が次第に支配を拡大、大化改新の詔(646)で一国となり、時代と共にその領域は北上していった。現在の福島、宮城、山形、岩手、秋田、青森各県にほぼ相当する。その陸奥は「都をば霞とともに立ちしかど 秋風の吹く白河の関」(能因法師)を南とし、北限は「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと」と唄われている様に、津軽海峡竜飛岬のある外ヶ浜である。
「白河の関」は、都から陸奥国へ通じる東山道の要衝で、奈良、平安時代に機能していた奥州三古関のひとつである。白河藩は吉宗の孫、松平定信が藩政を治め「天明の飢饉」など、日本を襲った相次ぐ天災、飢饉においても自国から一人の餓死者を出さなかったされる藩である。元禄2年(1689)4/21,この地を訪れた芭蕉は「心もとなき日数重るままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ」と「おくのほそ道」への決心を固めている。「卯の花を かざして関の 晴着哉」曽良。ここへは「東北本線」白河駅より12㌔、若しくは新白河からもバス便で30分、駅前レンタチャリで約1時間程こぐ。夏の終わりには、沿道に蕎麦の白い花が迎えてくれる。一方、北の端「竜飛岬(﨑)」の住所は、青森県津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜である。竜飛とは、アイヌ語のタム・バ(刀の上端)から転訛したもので、「突きだした地」を意味する。JR「津軽線」三厩から、バスで30分ほど乗ると終点の岬に着く。津軽海峡を隔てた北海道松前まで195㌔、この下を青函トンネルが通り、晴れた日は蝦夷地の山々が見える。襟裳岬と同じように、燈台以外何もない春、自然の地である。藤原氏三代が栄えた陸奥の都、平泉の位置は北緯39度丁度で「陸奥の中心部」、入り口白河の関は37度、北の外ヶ浜は41度に位置する。度重なる戦いで、家族を失った清衞は、奥州全体に仏国土、阿弥陀如来の西方浄土の極楽を築こうとし、康和年間(1099~1103)ここに本拠地を移している。因みに平泉の語源は、泉が沢山あったからとも、仏教的な平和希求の理念に基ずく地名からともされている。平安後期「前九年の役」で奥六郷を支配していた安倍氏が、源頼義、義家親子に滅ぼされ、その後「後三年の役」を経て、勝ち残った藤原清衡が本拠を構え、寛治元年(1087)から文治5年(1189)まで陸奥を治めた。藤原氏は、中央政府からの国司を受け入れ、それに協力する体制を保った為、朝廷における政争とは無縁の世界を維持する事が出来た。反面、清衞、基衞、秀衞は、三代に渡って豊冨に参出する砂金(平泉東側の三陸沿岸地域)や、名馬を資金源に中尊寺や毛越寺を建立、仏教文化を花開かせていった。また、砂金や名馬を都へ送り、中央政権から藤原氏の地位を容認させ、都の文化の流入に努めると同時に、情報の収集にも力を注いだ。
義経の奥州下りは、後白河法皇の意志だともされる。その理由として、「平治の乱」以降、陸奥は院の御令国であり、その利益は莫大であった事や、鎌倉と対峙出来るのは、奥州藤原氏以外はいないと考えた事による。また、三代秀衞は平泉と鎌倉も生かす作戦をたてた。長期戦に持ち込み、鎌倉軍の戦意喪失、疲弊を狙った。義経を総大将として、5人の子供たちが四十八の城郭にたてこもる長期戦である。地の利と砂金の財力、地元の名馬をもってすれば、それは充分に可能であった。義経が平泉に到着したのは、文治3年(1187)の2月頃とされ、義経にとって父、義朝そのものであった「北方の王者」秀衞が、亡くなったのはその年の10月29日である。秀衞没後、家督を継いだ泰衞は異母兄弟たちを謀殺、数回にわたる頼朝の圧力と脅しに屈服、文治5年(1189)閏4月30日、高館を襲った。500騎の襲撃に対し10数騎で防衛、弁慶の仁王立ちの奮戦にもかかわらず、義経は持仏堂で妻子と共に自害、31歳、一代の英雄は滅んだとされる。秀衞の構想は2年も充たない間にもろくも崩れ去った。これを待っていた頼朝は、同年7月奥州に出兵、頼朝の追討を受けた泰衞は、17万騎を擁しながら、部下の反逆に遭い、藤原三代の栄華はここに幕を閉じた。平泉は鎌倉中期以降、産金量の低下や、御家人たちの領地細分化により衰退、造営物の大半も失われていった。元禄2年(1689)前日に田村藩二万石の城下町「一の関」に着き、曽良と共に平泉を訪れた芭蕉は、「三代の栄燿一睡の中にして、大門の跡ハ、一里こなたに有。秀衞の跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。先、高館に登れば、北上川、南部より流るる大河也。(略)扨も、義臣すぐって、此城に籠り、功名一時の草村となる。国破れて、山河あり、城春にして、草青ミたりと、笠打敷て、時のうつるまで、なみだを落とし侍りぬ」と書付た。「夏艸や 兵共が 夢の跡」
「中尊寺」は、嘉詳3年(850)慈覚大師円仁によっ開山された天台宗東北大本山である。極楽浄土の世界を具体的に表現しようとした清衛は、長治2年(1105)「中尊寺(最初院)」再建にあたり「中尊寺供養願文」を起奏、争いのない平和な世界を作る事を宣言した。中尊寺創建当時の姿を、唯一、今に伝えているのが「金色堂」である。経堂ハ、三将の像を残し、光堂ハ、三代の棺を安置ス。「五月雨を 降残してや 光堂」。東北本線平泉駅前からバス停中尊寺で下車、勿論、平泉の街を散策しながら歩いてもいける。杉木立の「月見坂表参道」を10分程上ぼると、鞘堂にに囲まれた「金色堂」がある。阿弥陀堂は細部にまで金色に覆われ、螺鈿細工など当時の最高の技術が施されている。同じく慈覚大師によって開山された「毛越寺」は二代基衞によって造営された。本尊「薬師如来像」を京の仏師に依頼した処、その出来上がりに感動した後鳥羽上皇は、一時、京からの持ち出しを禁止したといわれる。毎年5月になると庭園の遣水を舞台に、平安装束で和歌を詠じる「曲水の宴」が行なわれ、また、宿坊もあり、泊まりながら坐禅や、写経も体験出来る。JRより直進徒歩10分。
高館に影武者を残した義経一行は、宮古で3年ほど滞在、八戸、竜飛岬から蝦夷地に渡航、この間畠山重忠や秀衛の弟、秀栄親子から助けを得ている。マトマイ(松前)、白老、新冠、ソーヤ(稚内宗谷岬)から樺太へ渡り、更にモンゴールへ進み成吉思汗になったといわれる。この仮説を最初に唱えたのは、日本橋長﨑屋にも訪れたシーボルトだと云う。此の話が次第に進化して、源義経(1159生、ゲンキケイ)=成吉思汗(1162生、ジンギスカン)と結びついたとされる。二人とも小柄(150㎝程)で、酒は飲めず、旗印は笹竜胆、奇襲作戦を好んだとされている。判官贔屓面目の文言である。さて、いよいよ18きっぷでゆく「新平家物語」最終章、鎌倉街道迷い道「鎌倉三代の滅亡」を送ります。
「江戸純情派 チーム江戸」 しのつか でした。
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