新平家物語 第3章鎌倉三代迷い道 ①「源氏相剋」

 源氏は52代嵯峨天皇を祖とし、清和源氏、村上源氏から江戸時代成立した正親町源氏に至るまで21流、代表的家紋は笹竜胆である。江戸幕府を開いた家康は、新田氏系列の源氏であると称している。平氏は桓武天皇を祖とし4流とされ、代表的家紋は揚羽蝶である。こうして皇族がからその身分から離れ、姓を与えられ臣下に下る事を「臣籍降下」という。「大化の改新」「明治維新」と並んで日本の三大改革といわれる、鎌倉幕府を開いた頼朝の祖先はというと、河内国司に任ぜられた源頼信が、寛仁4年(1020)に、羽曳野市坪井に土着した河内源氏である。頼信の子の頼義と孫の八幡太郎義家は、11th後半の平安末期、陸奥国、出羽国で起きた戦役、「前九年、後三年の役」で活躍した。この役は蝦夷と源氏との戦いであり、奥羽を実質的に支配していた清原氏が滅亡、平泉に仏教文化を開き、のち義経を支えた奥州藤原氏が台頭していく戦いであった。「吹く風も 勿来の関と思えども 我が身背にふる 山桜かな」義家は文武両道の武士であったと云われる。こののち、義朝、頼朝父子が歴史に登場してくるが、この父子が源氏の嫡流であったというのは、勝者の理屈であり、鎌倉幕府成立という結果論であって、河内源氏は、源氏一族の一員であったに過ぎない。要はその時代時代に活躍した源氏の一派が本流を名乗り、当時の世に認められていたに過ぎない。保元元年(1156)7月、「保元の乱」歿発。この戦いは崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承をめぐって、源氏、平氏の軍事力が対立した乱である。朝廷の内部抗争の解決に、武士の力を借りた為、貴族が無力化し、武士の存在感か増し、以後、維新まで約700年、武士政権が生れるきっかけとなった事件である。崇徳上皇、藤原頼長側に、源為義、為朝(義朝の父と兄)、平忠政(清盛の叔父)がつき、後白河天皇、藤原忠通側に、義朝、清盛がつき、源氏、平氏共に相剋の争いをした。結果、崇徳側は破れ、上皇は讃岐に配流、為義は処刑、為朝も配流された。

 この保元の乱を語るについて、この乱を生むきっかけを作った待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)というスーパースターを欠かす事は出来ない。平家物語に「賀茂川の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた72代白河天皇は、中宮賢子(けんこ)が亡くなると、祇園女御(一説には清盛の生母)と生活していた。55歳の時、この祇園女御が養女にむかえた藤原公実の末娘、璋子(7歳)を気に入り、源氏物語の「紫の上」の如く、一級の淑女として育て上げた。天皇(法皇)は先ず、関白忠実の長子に嫁がせようとしたが、流石に全てを知っている婿候補殿は、同じ穴の妖魁になると、尻に帆をかけて逃げた。次いで孫の74代鳥羽天皇(15歳)の中宮としたが、璋子はこの年下の夫を省り見ず、実家である白河天皇の宮殿へ里帰り、結果、元永2年(1119)、第一皇子顕仁親王(崇徳天皇)が誕生する。この時璋子19歳、法皇67歳、まさに半世紀程の年令差があった。崇徳天皇は法律上、社会的には鳥羽天皇の子であるが、実際には祖父の子である長男を「叔父子」と呼んだ。それでも本来夫婦であり、男と女であった璋子と鳥羽天皇の間に、皇子(後白河天皇)が誕生、璋子を同じ母とする異父兄弟が、皇位を争って戦ったのが保元の乱である。母、待賢門院璋子はこの戦いの10年前の久安元年(1145)に亡くなっており、自分が生んだ子同志が争う現場を、見なくて済んだのがこの乱の唯一の救いであった。

 飛鳥時代、額田王(ぬかたのおおきみ)が、袖をふった頃に始まり、平安貴族たちにとって「恋愛」は国家経営より、民草(国民)より重要な関心事であった。本居宜長は「儒教を生活の規範としている中国では、道徳を優先するが、日本では「もののあわれ」を重んじ、恋愛を文学の主要な題材とし、古代社会では家畜や財産の類いと考えられてきた女性が、男性に隷属せず、自由意思で配偶者を選べること出来るのが、恋愛であるとしている。

 親子、兄弟、親類が争った「保元の乱」から4年も満たない平治元年(1159)、戦後処理の論功賞に不満をもつ義朝が、反信西派の藤原信頼と共に挙兵したのが「平治の乱」であるが、本質的には鳥羽法皇亡きあと、後白河法皇が自分の院政を実現させるべく起こした乱である。頼朝の父義朝は敗れ、横死、兄悪源太義平は捕えられ刑死、三男頼朝は父と逃亡中、疲れの為馬上で眠り込み落馬、捕えれれ六波羅に連行されるが、清盛の継母、池禅尼により命を助けられ伊豆の蛭ヶ小島に配流となった。一方、平家政権の礎を確立した清盛は、平忠通の長男(一説には後白河法皇が忠通に与えた女御が、その時既に懐妊していた)である。仁安2年(1167)太政大臣となり、娘徳子を高倉天皇の后とし、安徳天皇を生ませ朝廷と外戚関係となる。西国30余国を地行国とし、500の荘園と大輪田泊・福原(神戸)による宋との交易を独占、富を貪り、奢る平家一門の主に座った。しかし、その平家も清盛が高熱を出して養和元年(1181)死亡すると、急に翳りを見せ始める。この高熱はマラリア熱であるとされ、10thの「倭名類聚鈔」に、「衣夜美(えやみ)」などの病名で紹介されており、後白河法皇も約10年後の建久3年(1192)に、同じ病で死亡している。中世日本で恐れらrた伝染病出あった。また、この年は頼朝(46歳)が征夷大将軍に任命された年でもある。

 頼朝と義仲は、治承4年(1180)後白河法皇の皇子、以仁王の令旨によって共に立ちあがる。8月頼朝(34歳)伊豆で挙兵、石橋山の戦いで敗れ、三浦半島走り水から安房に渡り、隅田川を渡河、鎌倉へ入り本拠とした。以後、頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれる様になる。続く富士川の戦いで、水鳥の羽音に驚いて敗走した平家に不戦勝。同年義仲(27歳)は、木曽に挙兵、寿永2年(1180)倶利伽羅峠で勝利、平家西走、義仲入京。元暦元年(1184)1月、義範、義経の連合軍によって、近江粟津の宇治川の戦い(源氏同士の戦い)で敗死。また、義仲の父、義賢も義朝の長男であり、頼朝の兄である悪源太義平に戦いにより殺されている。ここでも源氏相剋の歴史があった。同年2月、一の谷の戦い、翌、文治元年(1185)屋島の戦い。3月檀の浦の戦いで、奢る平家は滅亡した。*其の二 「鎌倉殿落馬」につづく

     

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