鎌倉三代迷い道 ➁「鎌倉殿落馬」

 寿永2年(1183)に対面した中原泰定によると、頼朝は「顔大きに背低きかりけり 容貌優美にして言語不明なり」とされ、甲冑を元に推測すると165cm位だとされ、当時の平均より長身であり、父義朝似であったとされる。頼朝は義朝の第3子、母は熱田大神宮司藤原季範の娘であり、義朝が多くの女性たちに接した中では、唯一門地が高い家柄であった。一方、凱旋将軍義経は第9子、母は常磐御前、朝廷の雑仕女であった。故に、流人の頼朝が河内源氏の棟梁になり得たのである。頼朝の器量や努力の結果ではなかった。当時の風習で、生母の家の家格の高い者が、一族の中で優遇されただけに過ぎない。

 頼朝の懐疑的性格は、弟、範頼、義経に対してのみに留まらず、旗揚げ以前に源氏統一に奔走した、叔父行家、父の弟、志田三郎義広、従弟木曽義仲等を誅伐や追討、また、義経の縁者の屋敷を焼いたり、義経妻良子の父やその息子の所領没収、殺害などをしていった。江戸の学者、新井白石はいう「頼朝ごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と。こうして血縁である者を頼朝は嫌った。自分の代わりに棟梁に成り得るからである。政権を樹立出来るからである。当時の地頭たちは、自分たちの土地をしっかりと保障さえしてくれれば、主は誰でもよかったのである。頼朝はそれだけ自分や、自分が創った組織に自信が持てなかったのである。また、血縁者に留まらず、有力御家人たちにも、追放、誅伐を加えていった。結果、有能な人材を失い、北条一族のみが生き残り、江戸幕府のような閣老政治体制が維持出来ず、幕府基盤を脆くしていった。こうした事柄から、頼朝の性格、人物像は冷酷な政治家というイメージが強く、武家政権の礎を築いたという業績に関わらず、小説、ドラマなどでも主人公になる事は少ない。

 治承4年(1180)後白河法皇の皇子、以仁王の令旨により、頼朝伊豆に挙兵、北条時政の娘政子と結婚していた事から、北条家や豪族を後盾にして、源氏の棟梁として挙兵した。男の打算である。自分の生れ、将来を考え、利用出来るものはあくまでも利用する。そこには男の情念など何処にもなかった。緻密に計算された打算があった頼朝にとって、いかなる人間も単なるその場の「道具」であった。また、妻政子は歴史書などによれば、日野冨子、淀君と並んで、日本三大悪女だとされている。その理由として、①夫の浮気相手の屋敷を、打ち壊す程の嫉妬深さであった。反面、静を庇う態度も見せている。女の二面性であろうか。②義理の弟、範頼に謀反の疑いがあると懴言、幽閉、謀殺。③自分の子、頼家、実朝を謀略をもって暗殺。これが結果的に後継者不足となり、源氏の嫡流は三代で途絶え、政子の実家北条家が実質的な権限を握り、政子本人も尼将軍として権勢を誇った。④承久の乱の後、鳥羽天皇など、皇族公家たちを壱岐や遠島へ流罪した。など、頼朝、政子夫婦は、朱に交わったせいか、類が友を呼んだせいか、似た者同士の互いに自己主張の強い夫婦であった。

 寿永2年(1183)平氏西走、義仲入京したが乱暴な行為が続いたため、法皇は頼朝に上洛を要請した。頼朝は代わりに東海道、東山道、北陸道の荘園、公領を元の国司に返還させる要求、結果、北陸道を除く東国沙汰権を法皇に認めさせ、間接的ではあるが、東国の支配圏を獲得した。宇治川の戦いで敗れた、義仲の失敗を見た頼朝は、より慎重体勢になり、関東での覇権維持にますます重点をおいていった。文治元年(1185)3月24日、平家壇の浦で滅ぶ。義経の鎌倉入りを認めなかった頼朝は、義経、行家の追討を名目に、朝廷に守護地頭の任免権を承認させた。一方、義経は法皇から頼朝追討の宣旨を出させるが、軍勢を集められず都落ちとなる。同5年(1189)頼朝の脅しに負けた藤原氏4代目の泰衡は、衣川高館に義経を襲い、自刃に追い込むが、自身も義経を匿った事を口実にされ、幕府軍と交戦、栄華を誇った奥州f藤原氏は滅亡した。頼朝は「治承の乱」から「義経追捕」「奥州合戦」と、一連の内乱の中で、幕府体制を固める事に成功した。もともと、東国武士たちは概して同族程度の団結より、大きな組織に結集する体質ではなく、これを御家人としてひとつにまとめたのが、頼朝だとされる。この頼朝の私的政権に発した鎌倉幕府は、この政権を徐々に朝廷に承認させる事によって、その正統性を獲得していった。従って、守護の設置など軍事権、警察権など治安の面では、権力を得たものの、それは頼朝傘下の御家人たちに限られていたが、「承久の乱」を経て、全国的に支配圏が確立していった。建久3年(1192)後白河法皇崩御、7月12日、頼朝征夷大将軍に任じられる。「保元の乱」からほぼ30年、「承久の乱」からほぼ10年後、ここから更に10年かけて、鎌倉幕府の支配体制が確立していったのである。鎌倉幕府は、朝廷勢力を前提とした政権であり「御恩と奉公」という、武士の利害を代表する政権であった。

 尚、鎌倉幕府成立時期については、かって年表を覚える為、「イイクニ ツクロウ鎌倉幕府」と覚えさせられた。勿論、頼朝が征夷大将軍に任命された年によるが、守護による諸国の統治や、地頭による荘園や公領で税の取り立て体制は、文治元年(1185)からなされていた為、現在では、この年をもって武家政権の成立、始りとみなしているが、他にも諸説ある。因みに頼朝が就いだ征夷大将軍という地位は、秀吉が就いた関白は、朝廷社会のトップを意味したのに対し、基本的には臨時職で、公家の下に位置する武家のトップという事になる。叙勲では従一位から正二位で、それぞれ時代の執権、管領、老中は、殆どが従四位から五位、これは、現在の総理大臣と本省課長の関係に匹敵する。

 鎌倉散策の参考までに、幕府が置かれた時期、場所を御案内すると、治承4年(1180)「石橋山の戦い」に敗れた頼朝が鎌倉に入り、大蔵(倉)の地(雪の下3-11、八幡宮の北東一帯)に屋敷を構え、侍所、公文所、問注所などを整備、「大蔵幕府(御所)」と呼ばれ、嘉禄元年(1225)まで置かれた。この年から、泰時は政子の死により幕府を辻子(小野2丁目)に移転、辻子とは大路を結ぶ小路を指すが、若宮大路と小野大路に囲まれた宇都宮小路の北側にあったとされ、「宇都宮辻子幕府」と呼ばれ、嘉禎2年(1236)まで置かれた。その後、幕府滅亡の元弘3年(1333)まで置かれたのが「若宮大路幕府(雪の下1丁目)」である。4代頼経より9代守邦親王まで存続した幕府跡で 親王屋敷とも呼ばれた。場所は辻子と同じであるが、出入口が若宮大路に面していたとされる。

 周囲の空気を読めなかった唯我独尊の義経と、懐疑的で周りの人間を信じられなかった頼朝と、二人の間で懴言を繰り返していた梶原景時との3人が互いに牽制しあっていったのが、鎌倉幕府成立の過程の一面であったが、その3人が順次淘汰、事故死し、後に残った政子とその一族が漁夫の利を得たのが、鎌倉幕府その後の一面であった。②幕府崩壊につづく

     

                                                                               

 

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