鎌倉三代迷い道 ③「幕府崩壊」
頼朝は征夷大将軍に任ぜられてから僅か7年後の、建久9年(1198)12月27日、相模川の橋、落成儀式の帰途落馬、翌10年1月13日、それに伴う再起不能で死去、満51歳であった。頼朝の落馬は、史実によれば2度目である。1度目は「平治の乱」で、平治元年(1159)敗れた父義朝と逃亡中、疲れからくる馬上の睡眠で落場、捕えられ六波羅探題に連行され、辛くも一命を助けられている。頼朝の父方の曽祖父、祖父、父、息子、孫、従弟の殆ど、及び義経など兄弟、父義朝の兄弟の殆どが戦で死亡、畳の上で死んだのは、頼朝本人と三男真嘵だけであった。頼朝の死因については、いろいろ取り沙汰され、脳血管障害による半身不随からくる落馬、それによる意識混濁、糖尿病による合併症、溺死説(因みに相模川河口付近は馬入川とも呼ばれている)、加えて頼家、実朝同様に妻政子、北条氏による暗殺説もある。頼朝は生前、父として清盛が娘徳子を入内させ、安徳天皇を生み外戚となったのに倣い、長女大姫の入内を画策していたが、大姫にとっては意にそまない結婚であり、そのせいか入内前に死んでしまう。これに落胆したのか、頼朝もまもなく死んでしまう。また、長男頼家に対しても頼朝は、優しい父親であった。富士の裾野で巻狩をした際、12歳の頼家が初めて鹿を射止めた。頼朝は大いに喜び「山神、矢口の祭」を行ない、御家人たちに、次期後継者は頼家であると宣言した。この様にまだ幕府の方針は、徹底されておらず、新たな体制に不満、反発を抱く御家人たちが、存在していたのである。
「相剋」とは、広辞苑などによれば、対立、矛盾する二つのものが、相手に勝とうと争う事をいう。東洋医学の世界においては、陰陽五行説が説くように、木は水に助けられ、火に酷される。木火土金水が互いに助け、互いに酷されている。源氏の世界においては、唯我独尊、我が身の将来、安泰が最優先で、そこまでは現代人も負けてはいないが、法治国家が未熟であった中世の世界においては、意見の合わない者、邪魔な物は、即排除であった。父頼朝の死によって、18歳で第2代鎌倉殿を襲名、母方の北条氏を中心に、13人の合議制がとられ、頼家は直に訴訟を裁断することは出来ず、若い側近たちと蹴鞠や狩りに明けくれる毎日となっていった。頼朝は、頼家に比企氏を、実朝に北条氏を後盾としていた為、結果両御家人の勢力争いになり、建仁3年(1203)愛妻若狭局の一族「比企の乱」は失敗、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、翌元久元年、7月謀殺される。36歳。これにより北条氏が幕府の実権を握る事になる。この年の4月には、平氏残党の反乱(三日平氏の乱)も起きている。兄頼家の死によって、三代鎌倉殿に就いたのは次男実朝である。この時若冠12歳、名付け親は後鳥羽上皇、それもあって実朝が直接の手本としたのが上皇であり、朝廷との関係を深めていった。建保6年(1218)右大臣に任ぜられた翌7年=承久元年1月27日の拝賀日、雪二尺積もる鎌倉八幡宮大銀杏の陰に、隠れていた頼家の息子、公暁(20歳)に殺される。この時28歳、実行犯公暁も三浦義村家臣によって殺害され、事件は闇の中となるが、こうした暗殺事件には必ず黒幕がいる。北条義時(当日太刀持ちの予定であったが、急遽腹痛を訴え交代している)三浦義村など、各個人説、鎌倉御家人共謀説、後鳥羽上皇説、公暁が実朝を父頼家の仇打ちとして恨み、4代目を狙った個人説など、憶測も混じり諸説がある。これにより、源氏嫡流は断絶、源頼信から続く河内源氏も断絶した。また従来、後鳥羽上皇は公武融和路線が進められるとみていたが、実朝の死によってそれが破綻、「承久の乱」に繋がっていく。
頼家、実朝にとって蹴鞠や和歌は、幕府と朝廷の関係を安定させる上で、幕府の長として必須の教養であった。平安時代から流行した蹴鞠は、鹿革を馬革で縫い合わせ鞠を、身長の2,5倍までを高さの限度として蹴り続け、その回数を競う競技である。四角に柳、櫻、松、楓の式木(元木)が植えられ、この木に鞠がかかると不吉の予兆とされた。頼家、実朝も何度かかけたのであろうか。また、蹴鞠に関するもうひとつのエピソードとして、武家政権の誕生と並んで、日本の三大改革(明治維新)とされる「大化の改新」を成し遂げた、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足の二人は、法興寺での蹴鞠を通じて親しくなったと云われている。こちらは鞠がかからなかったものとみえる。「吾妻鏡」には、(実朝は)「将軍家諸道し給う中、特に御意に叶うは歌、鞠の両芸なり」と記されている。また子規は「あの人(実朝)をして、今10年も活躍していたならば、どんな名歌を沢山残したかも知れ不申候」と記している。家集「金塊和歌集」の他、勅撰和歌集には92首、小倉百人一首では鎌倉右大臣名。「大海の 磯もとどろに よする波 われて砕けて 裂けて散るかも」
頼朝に代わり妻政子や北条氏の相剋が、他の御家人たちにも及んだ。平家追討時、軍監であった懴言癖の梶原景時は、この癖がたたり追放され、正治2年(1200)追討される。比企能員も母が頼家の乳母であった関係で、娘若狭局を頼家に嫁がせ、権勢を振るったが、北条時政により建仁3年(1203)謀殺。頼家が修善寺に幽閉された年である。畠山重忠は、鎌倉武士を代表する武士(もののふ)であったが、元久2年(1205)北条義時と対峙、二俣川で壮絶な最期を遂げている。和田義盛も、頼朝から頼家の将来を託されたが、これまた義時と対立、由井ヶ浜で一族が全滅している。また、武士たちに限らず、幕府成立の過程において、多くの女性たちも犠牲になった。清盛妻平時子と娘徳子は、共に壇の浦で入水、時子は安徳天皇を抱いて海の底で仏となった。徳子は引きあげられて、京、寂光院で平家一門の供養に一生を捧げた。義仲の乳母の娘として生れた、巴御前は義仲を支えたが、最期を見届けるとそのまま姿をくらまし、行き方不明。故郷木曽へ戻り、義仲の供養に務めたと思われる。義経の母、常磐御前は、3人の子たちの命を護るため、清水寺から六波羅向かい、清盛に命乞いを願い、一女をもうけた後、一条長成と再婚、幸せな家庭を築いたとされる。義経愛妾静御前は、吉野山で泣く泣く別れ、捕縛され鎌倉で無理強いされた舞いを舞った後、生まれた我が子は殺され、20歳で亡くなったとされるが、伝説通り義経を追いかけて、大陸に渡り、元の妃になったと観測している。
実朝死後の四代以降は魁儡政権、(江戸時代も酒井忠清によって創られかけたが、堀田正俊により阻止され、5代綱吉が誕生している)承久3年(1221)後鳥羽上皇は、失地回復を目指して北条氏追討の兵を挙げるが失敗、それまで東国辺りで留まっていた幕府の権限が、更に院政であった、西国にまで及ぶ事になり、上皇側についた御家人たちの領地、西国の荘園3千箇所余を没収、幕府軍に配った。京の公家から完全に政治の実権を奪い去り、北条氏による執権政治が確立していったのが「承久の乱」の意義である。これより維新まで、朝廷をうまく利用して、政治的実権を握っていくのが、武家政権である。上皇は壱岐に配流、佐渡に流された順徳天皇は、亡くなるまの21年間、庭の片隅に咲いた花を見て、しばし都を忘れる事が出来たという。秋から咲く事の多い野菊の中でも、春から初夏にかけて咲く、この花の名を「都忘れ」という。花言葉は「しばしの憩い、別れ」
鎌倉武士たちの共通の言葉に「一所懸命」という言葉がある。武士の一所、自分の土地を命をかけて守ることをいう。言い換えれば、自分たちの領地が守られていれば、自分たちの「主人」は誰でもよかったのである。鎌倉殿が領地支配を保障、または新たな土地給与を行う「御恩」に対し、御家人が鎌倉殿に対して負担する、いざ鎌倉に代表される軍役や経済的負担を「奉公」という。鎌倉殿と御家人たちの互惠関係、絶対的御家人制度「御恩と奉公」が「文永の役」「弘安の役」=元寇によってで崩れ、幕府崩壊に繋がっていく。元寇頃迄は国内で滅ぼした相手の領土を、味方の御家人たちに配分する事によって、その秩序は保たれていた。しかし、外国との戦い、元寇によってそのシナリオは完全に崩れ去った。死にものくるいで戦った、御家人たちに与える土地は海のむこう、即ち、与える土地はなかったのである。後世、わざわざ同じ轍を踏んだのは秀吉であった。さんざん犠牲者をだした朝鮮征伐により、得られた者ものは何もなかった。単なる秀吉の妄想が豊臣政権を疲弊、分断させた。御家人たちがこの戦いによって生じた、借金や土地の担保を帳消しにするという「徳政令」(江戸寛政の改革でも定信が断行、幕府の威信を弱めた)を打ち出したが、これは貨幣経済の混乱を生む事になり、結局何も与えない幕府の対応に不満を高めていった。
元弘元年(1331)後醍醐天皇親政を志す、これを受けて河内赤坂城で楠木正成挙兵、同2年、護良親王吉野に挙兵、同3年、足利尊氏六波羅探題を陥落、5月8日、新田義貞、郎党篠塚伊賀守らと共に、小手指、分倍河原の戦いで北条軍を撃破、5月21日稲村ケ崎から鎌倉に突入、22日北条高時など一族は自刃、文治元年(1185)平家一門滅亡してから、150年近く続いた鎌倉幕府は脆くも崩壊した。まさに「盛者必衰、諸行無常の世界」が繰りかえされた。
「江戸純情派 チーム江戸」しのつか でした。
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