<江戸メデカルレポート>江戸の癪の種

 前回お送りした「薮の養父たる地」は、京都からJRで一番長い路線「山陰本線」に上乗姫路からきた「幡但線」が交差する駅が和田山という駅で、山陰本線その次の駅が前回登場の「養父(やぶ)駅」、この線は城﨑温泉、鳥取、松山と、山陰の町々を繋ぎ、関門海峡の町、門司港までいく。さて 養父は但馬の国(兵庫県北部)に位置、低い山あいの風光明媚な町で、この町のイメージキャラクターは「やっぷー」魚のマンボウを立たせたような、愛嬌のある顔をしている。西へ旅立つ機会があれば立ち寄ってみては如何。養父観光代理、実父(じぶ)でした。

 江戸時代、疾病対する認識は神や仏の御機嫌が悪いのが原因とされ、祈祷や御札に頼っていた時代から少しずつ抜けだし、治療には薬が必要だとの意識が除々に浸透していった。 江戸時代、病気と称するものは ①疝気、癪 ②食傷、胃腸障害 ③脚気、腎虚 ④流行病⑤悪性腫瘍などの疾病 等に大きく分かれていた。江戸時代中期まで、朝鮮人参など、薬種は殆ど輸入にたよっていた。しかし、これらは偽物、粗悪品が多く、また金や銀の国外への流出につながり、幕府財政を圧迫したため、八代吉宗はこれらの国産化を目指し「小石川薬園」を始め各藩にも苗を送ったりして栽培を奨励している。本草学の分類では、草部は人参以下77種、大根も薬として活用された「花の雨 練馬のあとに 干し大根」

 日本橋本町三丁目にあった「薬種問屋」は、まだ精製や調合をしていない生薬、薬種を扱い、現在の漢方薬の店となる。これらの生薬や薬種を調合、効能を研究する学問が「本草学」薬として製法する道具が底がⅤ字型の「薬研」である。また、砂糖も内蔵の機能を和らげ大腸を丈夫にするととされ、当時は薬の一種として捉えられており、享和年(1801~04)まで薬種問屋が砂糖店を兼ねていた。現代でも厚労省が定める医薬品の規格基準書である「日本薬局方」には砂糖はしっかり載せられている。薬種問屋にとって、薬種はあくまでも商品であり、薬効を研究するのは「医師」であり、薬物を分類するのは「本草学者」であった。現代における「薬の知識」など医療を担う意識は江戸時代においてはまだ稀薄な時代であった。

 「癪」にさわるとか、あいつは「癪」の種だとか、人間とは「癪」がついて廻る者らしい。江戸時代も女性が多くかから病気とされ「差し込み」ともいわれた。胸部や腹部、特に胃の辺りに一時的に激痛がはしる症状で、その患部を強く押す事によって痛みは緩解した。原因は冷えやストレスからだとされ、遊女などが嫌な客にあたったりすると逃げる口実によく使われた病気である。また原因はこの他にも通称「バカ貝」と呼ばれる青柳のアニキザスという虫が腹痛の原因となり癪を起こすといわれた。一方「疝気」も現代の病名では当てはめられない病気のひとつであるが、下腹部が痛くなる男性の病気であり、女性の場合は「寸白(すぽく)」といった。漢方では「症」といい、気が鬱帯して生じる病としている。腹皮、腹筋痛、しぶり腹など下腹部一帯の痛みを総じてそうよばれていたが、当時の医者の診断によれば、疝気は体内の血行が不十分で寒気や冷えによって下腹部が冷やされて生ずる症状と云う事になる。「夕涼み 疝気おこして かへりけり」                     従って食べると身体を冷やす、蕎麦が疝気に悪いとされ「蕎麦は冷え物うえ 脾や胃虚弱の人には宜しからず」となる。蕎麦好きの江戸っ子達にとって蕎麦は食べたいし、疝気は嫌だしでこれも、癪の種であった。加えて、江戸のすきま風住まいがこれを加速させ、職人達は夏でも、晒しの腹巻をしっかり、腹に巻き、冷えから身体を守った。これに半被だけと「いなせ」で恰好はいいが、やはり冷えはついてまわった。最後に薬種問屋に頼らない「民間療法」として ①風邪や胃腸病に効くとされる、生姜や皮膚病に良いとされる、枇杷の葉等の「煎じ湯」②切り傷に貼るよもぎの湿布 ③風邪によい、梅干や枇杷の葉の黒焼、口内炎には茄子のへたの黒焼等が利用されてきた。現代でも少々むかし、海や山に行って、擦り傷などは海水で良く洗ったり「血止草」なるものを傷口にあてがって、血が止まるの待ち、そのまま遊んでいた三丁目の夕陽の世界がそこにあった。

           

 



            

 




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