<江戸メデカルレポート>築地近代医学史①前野良沢

  豊前中津藩藩医 前野良沢 蘭学を識る

 築地は明暦大火後に築き上げられた土地、文字通り築かれた地であった。関ヶ原の戦いで勝利した家康は、巨大な領有地、約700万石を背景に、軍事権、貨幣発行権などを握り、270余州の大名たちに、江戸を中心とした改造を命じた。いわゆる「天下普請」である。特に関ヶ原の戦いで敵対した、西国大名たちに対してはその制裁は厳しかった。鉄砲洲から先の築地が埋立てられ、御浜御殿辺りまで陸続きになるのは、家康から数えて4代目家綱の時代、70余年の歳月が流れていた。明暦大火後、その一角に浅草横山町から西本願寺が移転させられ、播州赤穂浅野家上屋敷など大名屋敷も置かれた。その一角に今回の主人公前野良沢が藩医を勤めた、豊前国(大分県)中津藩奥平家の中屋敷があった。良沢は幼いころ父母と離れ、叔父の家で育てられた。46歳になって初めて江戸で青木昆陽から、また、明和7年(1770)主君奥平昌鹿の勧めで留学した長﨑で、吉雄耕牛から阿蘭陀語を学んだ。その時入手したのが、ドイツ人医師クルムスの解剖医学書を、阿蘭陀語に訳書した「ターヘル・アナトミア」であった。後に「解体新書」の主幹訳者となる良沢は悩んでいた。この本は確かに人間の解剖書である。しかし、そこに阿蘭陀語で記されている内容は解読出来ずにいた。人体の内臓を見た経験のない良沢にとって、此の本は全く、未知の世界への遭遇の本であった。そうだ、この季節は日本橋本石町の長﨑屋に、阿蘭陀のカピタン(商館長)一行が逗留している。あそこへ行って医学の同士たちに相談してみよう。

 菊地寛の短編小説「蘭学事始」によると、翻訳に参加した中川淳庵の小者が、かねてより申請していた腑分けが、明日行なわれると知らせてきた。これが、明和8年(1771)3月3日の事である。側でそれを聞いていた、若狭国小浜藩藩医杉田玄白は、そこに居合わせなかった良沢に、明日4日の集合を知らせる飛脚便を、麹町の屋敷に送った。あくる明け六っ、良沢は既に約束の場所に来ていた。その目は喜びにあふれていた。骨ヶ原(小塚原)で手医師による腑分けに参加したのは六人である。明和8年(1771)玄白は、後輩淳庵の仲介で、小浜藩の好意でカピタンへ三両を支払い、ターヘル・アナトミヤを入手し、懐に入れてきていた。その書物を取りだそうとした瞬間、良沢が「皆さんこれを見て下さい」示したのは、玄白の懐の物と同版同刻の書物であった。余りの偶然に一同は顔を見合わせ「これは吉兆です」と感動した。良沢は図を示しながら云った。これがロング(肺)これがハルト(心臓)これがマーグ(胃)でござる。医経の五臓六腑の説とは異なるものでござる。本日は阿蘭陀の絵図が正しいか、漢の説が正しいか証すべき日であると。図に示されたものは、自分たちのが目でみているものと寸分の違いは無かった。帰り途、中年の男六人は、興奮しながら誰云うともなく「此の本は絶対に日本語に訳して、これからの医学に役立てるべきです」「すぐに始めるべきです」一同の感動は少年の様であった。

 明和8年、3月5日、築地の中津藩奥平家の中屋敷に集合した、杉田玄白、中川淳庵(後から奥医師桂川甫周も加わる)は、先ず良沢の阿蘭陀語の基礎的学習から始り、辞書のない環境下、一言一言書き取ってはそのフレーズがどの部位を示すのか?、どの様な意味をなすのか?そのワンフレーズのため、一日中議論を戦わせる日もあった。当時の事を玄白は、「蘭学事始」で「ただ茫洋として 櫓舵なき船の 大洋に乗り出せしが如く」と述べている。安永2年(1773)「解体約図」刊行、翻訳を始めてから、3年5ヶ月後の安永3年8月翻訳が終り、日本語の漢文木版刷、本文4巻200頁、解体図1巻の併せて5卷の「解体新書」が刊行された。クルムスの蘭訳本「ターヘル・アナトミア」を基本にして、数冊の洋書が参考に加えられ再構築された「解体新書」である。玄白の友人であり、桂川甫周の父である甫三から、十代家治にに献上、江戸日本橋の板元、須原屋市兵衛の下で、日本初の西洋医学書の翻訳本として出版された。翻訳の際に新しく考えられた「神経」「軟骨」「動脈」などの語句は、現代でも使用されている。良沢は以降、阿蘭陀語の入門書や天文学書などを翻訳、「蘭学の開始」と呼ばれた。

 文化12年(1815)玄白は83歳になっていた。明和8年から安永3年にかけての、蘭学草創期の当時の苦労、経緯を正確に世に残すため、原稿本と写本の2冊を、高弟大槻玄沢が校正し書かせたものが回想録「蘭学事始」である。上下二卷をなし、当初は「蘭東事始」と題されていた。玄沢は此の2年後、当時としては高齢の85歳で永眠している。原稿本は杉田家に残されたが、安政2年(1855)に発生した「安政の大地震」によって焼失、大槻玄沢に託されていた写本は、幕末の頃、神田孝平が湯島の露店で偶然見つけられ、明治2年、中津藩士であった福沢諭吉らが、杉田家の同意を受け、上下本「蘭学事始」の題名で刊行した。明和8年の腑分けから始り、3年5ヶ月を要した翻訳を終え、文化12年に回想録を玄白が出し、約一世紀をかけた蘭学の発展の経緯が、やっとここに正確に発表された。当初、解体新書には前野良沢の名前は記されていなかった。それは良沢が翻訳の不備、未完成を理由に名前の記載を拒んだ為とされている。一方、玄白は不備を認めながらも、江戸の医学界のために出版を望んだ。明治2年の諭吉らの新版蘭学事始によって、始めて我が藩の大先輩、前野良沢の偉業が世人に知らしめられる事になった。諭吉は玄白が記した「ただ茫洋として」の文章に差しかかるたびに、感涙に咽び泣いたと云う。


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