<江戸メデカルレポート>江戸のくすり喰い

 江戸時代は通して、気温の低い時代が続いた。気象学的に云うと小氷河期、全般的に気温の低い時代であった。縄文時代は温、弥生時代は冷、平安から鎌倉にかけては温を繰り返し、14thから19thまでが小氷河期、現代は地球温暖化をむかえている。因みに2030年以降は、太陽の活動が60%低下するため、以後370年にわたって、極寒の時代がくると云われる。これはあくまでも一部の予測である。

 江戸の冬は立冬から始まる。寒の入りから小寒、大寒と続き、立春を過ぎても、春は名のみので、江戸の冬は長く厳しかった。北西の季節風が吹き荒れた江戸の町は、九尺二間に住む江戸っ子たちにとっては、厳しい季節であった。天井から壁から床下から、勿論、唯一の入口となる、台所兼用の土間の隙間からも、容赦なく冷たい風が吹きこんできた。稼ぎの悪いシングルの棒振りなどは、まだ畳も借りられず、莚(むしろ)の上に、せんべい布団を敷き、何枚も重ね着して、身をかがめて寝ても、爆睡は無理であった。こうした、厳しい江戸の冬を癒してくれたのが、地酒の熱燗と今回の主役となる「ももんじぃ=くすり喰い」である。「くすり喰い」とは、滋養補給のための食事をいい、特に四つ足の獣肉を食べる事を云う。我が国では、天武天皇の4年(675)勅命で獣肉を食べることを禁じられたが、それ以前は貴賤の別なく食べられていた。江戸時代に入り、殺生の禁止という仏教の教えから、表向きは肉食禁止の風習があった。「くすり喰い 人目も草も 枯れてから」それでも病気滋養や寒い時期の保養には、獣肉を食べる事が許されていた。江戸後期になると、ももんじ屋の看板で、獣肉を山にいる鯨=「山鯨」として料理して提供する店が現れてきた。(名所江戸百景 びくにはし雪中 参照)「山鯨」とは、一般的に獣肉の陰語で、主として猪の肉を意味している。鯨の赤肉を鍋に煮ると、猪の肉の様になることからこの名がついた。守貞漫稿では、「三都とも獣肉を売る店では、山鯨と書くのが常識のようだ。あるいは猪を牡丹、鹿を紅葉、馬を桜というが、虎肉があったら竹とでもいうのであろうか」と記している。また、江戸時代の人々は、魚や野菜の他に、鳥類の肉(柏)などから、動物性たんぱく質を摂取、山へ入って猟をしていた人たちは、熊やウサギなども食していた。

 江戸での獣肉を食べる慣習は、狩猟文化がまだ残っていた地方の武士たちが、江戸へ参勤交代に出た折に食べていたのが始りとされる。「初鰹 より初牡丹 羽が生え」江戸っ子の見栄と虚栄を満足させた、初夏の目には青葉の初鰹を凌ぐ人気のあった、初牡丹(猪肉)を詠んだ川柳である。産地は伊勢、但馬、近江の山中、若い雄の肉が上質とされた。山鯨(猪肉)の効用に「癩癇を治し 肌膚を補い 五臓を益する」と謳われ、「ももんじい」の語源は「百獣」、病気治癒のため「くすり喰い」として獣肉を食べた。「およそ(猪)肉は葱がよく調和する。一人の客にひとつの鍋を用意して、醤油、味醂で味付けをし、火がおこり肉が煮えたらだんだん旨くなる。上戸はそれで酒を飲み、下戸はそれで飯を喰う」となる。天保2年(1831)「江戸繁盛記」では、ひとり鍋(小鍋立て)が50文前後、1文=25円前後として、現在の居酒屋と同じ位であろうか。文化年間(1804~18)大坂の所々に獣肉を売る店が出来たが、よしず張りの店で街中にはなかった。江戸でも麹町に獣肉を扱う「山奥屋(甲州屋)」という店などが出来始め、「冬牡丹 麹町から 根分けなり」と、仕入れも多かった事が伺われる。文政期(~30)に入ると麹町の他に、東両国(豊田屋)北紺屋町(尾張屋)などが出来てきた。「守貞漫稿」にも「江戸は麹町に獣肉として、一戸あるのみなりしが、近年諸所にこれを売る」としている。嘉永二(1849)年版「近江屋板江戸切絵図」には、現平河町1丁目辺りの通りの両側には「獣屋」と記され、甲斐の国で獲らえられた獣肉を、甲州街道をへて、半蔵門近くの麹町に卸されていた。近年、このあたりで、2m四方の獣の骨のゴミ穴が多数発見され、そこから1500点余の骨が出土、その内訳はおおよそ、鹿58%、猪37%ほどであった。因みに、鹿肉はよく煮込んで食べる猪肉とは反対に、しゃぶしゃぶ風に、さっと湯に通して食べると旨いという。「鹿肉は百帖の薬を喰らわんよりは、ひと鍋の鹿肉を喰うに如かず」と江戸繁盛記にも記された様に、栄養、滋養に充ちた獣肉であった。「けだもの屋 薮医者ほどは 口をきき」

 このくすり喰いの風習は、武士階級の間でも一般化し、譜代筆頭、近江彦根藩井伊家では、将軍や親藩に「養生肉」として、牛肉の味噌漬けを、寒中見舞いとして送っていた。輸送は安全を考え、干し肉を東海道、中山道の二手に分け、当時、江戸彦根間の飛脚が、8日間かかる処を、昼夜走って半分の4日間で、江戸に届けたという。幕末「日米通商修好条約調印」安政6年(1858)横浜開港後は、獣肉を扱う店は益々増加、鳥鍋、豚鍋、牛鍋と書いた看板を出し、なべ焼きに煮る店も増えていった。このように獣肉に限らず、豚肉、牛肉も食べられるようになっていく。文明開化後は「牛鍋ブーム」となり、「ももんじゃ」は次第に衰退していったのである。この流れに関し、賛成、反対の論争が起こり、反対派の国学者は「かくて江戸の家屋に不浄充満して、祝融の怒りに遭うことあまた也」と、江戸に多く発生する火事は、肉食のせいだとした。時代をさかのぼり「江戸の四上水」を廃止するときも、同じような意見が戦わされた。肉食が一般化された文明開化の後も、食生活の大きな変化をみせながら、人間の特に学者と云われる人たちの頭脳細胞は、仏教の教えの教えを守り、おそるおそる獣肉を食べていた時代と、何らの進化を見せていなかったのである。




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