<江戸メデカルレポート> 薮の薮たる所以
自分が名乗れば医者になれた江戸時代であったが診察料は高く、おまけに薬まで高くて当てにならなかった江戸時代、医療対策として庶民はどうしても民間療法か神だのみ、一時しのぎ的に希望的観測もこめて、疾病という「厄」から逃れようとした。現代では先ず病院へ行って診察、入院か、薬を飲んで回復に努め、それでも駄目なら昔からの民間療法、高い薬を買わされて、それも効かないと、最後の手段、「苦しい時の神だのみ」となるが、江戸時代ではこの治療法は全く逆であった。ヤバイなと感じたら先ず霊験あらたかな神社の御札を頂き、家の目立つ所に貼り一生懸命祈願する。それも余り期待できないとなると、生薬か調剤された薬を飲み、大人しく回復を待つ。自称医者の出番は最後の最後であった。往古より日本に伝わって来た祭事や節句も、長く元気で丈夫で生きたいという願望の表れが、そうした行事につながり受け継がれてきた。人々は人日には七草粥を食べ、正月で疲れた胃を癒し、ひいな祭りには人形に託して身の穢れを流し、端午の節句になると、菖蒲湯に入って身体を清めた。、夏の七夕は五色の短冊に家族や好きな人の健康を願い、愛が時空を超えて実る様に星空に願った。秋は菊(重陽)の節句、菊の花にかぶせておいた朝露を含んだ真綿で身体を拭い、1年の無病息災を祈り1年1年を過して来たのである。
江戸の療法は、現代医学が痛みなど患者が訴える原因を探り、その原因となるものを除去し治癒に結びつける方法とは異なり、表面的な症状をおさえる「対症療法」が主流をなし、痛みを和らげ患者の自然治癒力に期待した。つまり原因となっている病巣を取り除き、完治させる事ではなかった。江戸期は分野によって漢方医と蘭方医に分かれ、治療患者により、朝廷や幕府に仕えた医師、各藩に勤める藩医、一部では免許を持たない町医に分けられた。専門は本道(内科)外科、女医者(産婦人科)眼科、小児科。幕府医官は御典医とも御近習医師「御匙」ともよばれた。御匙とは、将軍から薬の調合をするための、銀の匙を拝領された医官である。ここで諺のお勉強 「匙を投げる」とは、回復の見込みがない患者の治療をあきらめる事で、「匙加減」とは本来の意味は治療に対する薬の量を加減する事、転じて、回復見込みのない患者を、他の医療機関へ回す(タライ回し)為も医者の匙加減といわれた。
「医」は「醫」とも書いた。下の「酉」が「坐」とも解釈され、坐女を意味したとされ、医学の起源は宗教的な事と関係していた事が伺がわれる。免許もない自己申告の江戸期の医者は、「薮医者は 一人生かして 一人死に」「病人の 方で薮医の 匙を投げ」とまで詠まれた。「薮医者」の語源はいくつかある。①薬を使うと同時に呪術、祈祷などを用いる野坐(やぶ)医者 ②高価な薬が買えないから、薮の中から草や根を彫ってきて調剤した薮医者、その中で有効なものを見つけ出す者は名医とされた。③「薮をつついて蛇をだす」余計な事をして、事態(症状)を余計悪化させた ④似て非なる物に、薮茗荷など薮の字を充てた。転じて腕が悪くて患者が来ない医者を「薮」といった。最も説得性のある説は⑤芭蕉の弟子、森川許六が編纂した「風俗文選」によると、但馬国(兵庫県)に「養父(やぶ)」という地名がある。そこに死にかけた患者さえも蘇生させるという名医がいた。その名医に沢山の弟子が集まってきた。養父と云えば名医の代名詞となった。が、いつの世もそれに便乗する輩が出てくる。「名」だけの「名医」が誕生した。「薮」の真の誕生秘話である。医者を詠んだ川柳は沢山ある。コロナに頑張っているドクターには失礼だが、納得充分の読みごたえである。「仁義より 礼の字を 医者大事がり」(馬琴の八犬伝をもじっている)「流行医者 世辞軽薄を 二味加え」(世辞も技の内?)「薮医者は そのくせうるさく 多言也」(幇医者、仲人医者ともいわれた)「俄医者 三丁目で みた男」(薬種問屋が多い本町三丁目である)「皆な見放しに 薮医の頼もしさ」 (もう誰でもいい助けての心境である)江戸時代、以上の方々はごく一部で、水戸徳川家の藩医が編纂した「救民妙薬」には、領民に対し薬の用い方を付箋にまとめ、即対応出来る様まとめられていたし、また「医は不仁の術 務めて仁ならんと欲す」津藩医 大沢雲沢と、「医はどうあるべきか」に真摯に立ち向かっていた医師は沢山いた。
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