ロ <春><夏>
〈春〉
節 分
春の訪れは花で、秋の訪れは凬で感じる。 長い冬が終わり春は「立春」から始まる。東風解凍、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨と春の季節 は巡る。立春の前日は「節分」福は内鬼は外、豆をまいて邪気をはらった。家々では門柱や玄関先 に柊の小枝に鰯の頭を刺して魔除に飾る、鬼が来て好物な鰯の頭を食べたいのだが、柊の葉のトゲ トゲが痛くて食べられない。人間様も鬼も人生、鬼は鬼生か、思うようにはいかない。内憂外患、 昔から何かと心配事は転がっている。それぞれその歳の分だけ豆を食べたり、食べれない人は豆で淹れた福茶を飲んだりし、その年の厄を払い健康を願った。節分の行事、現在では二月三日となっ ているが、明治の改暦前までは正月を立春の祝いとした慣習に因み、晦日に行われていた。
春一番
潮がよく退く春になると「潮干狩」のシーズン。品川沖、芝浦、高輪、洲崎といった海岸へ浅蜊 や蛤を採りに行く。特に三月三日は干満の差が大きくなる干潮となるので三~六日辺りは絶好の潮 干狩日となる。
早旦より引始て午の半刻(十二時頃)には海底陸地と変ず。(東都歳時記)
振袖を くはえて歩く 汐干狩
立春を過ぎると生暖かい南寄りの強風が吹く。初めて吹く風を「春一番」桶や洗濯物を吹き飛ば し、着物の裾をはだけさせ、町や人々に悪戯をして吹き抜けていく。春一番が吹くと本格的な春は もうすぐ、ひと雨毎に春は暖かくなっていく。
桃の節句
旧暦三月上旬の巳の日(上巳)は「雛節句」、紙の人形に身の穢れを移して水に流すお祓いとし て春の農耕開始前に行われた。日本書紀にも既に記録が残され、この行事に貴族の娘達の雛遊(ひ いなあそび)が結びつき桃の節句・雛祭りとなる。こう呼ばれる様になるのは宝暦・明和の頃からだと云われる。
室町の 御所は桃咲く 頃に出来
雛段に飾られる人形と道具は当初京で作られていたが、その後江戸で古今雛が誕生、二月下旬頃 から三月二日迄雛市が日本橋十軒店、尾張町、浅草芳町、池之端仲町等で立ち、米が二~三升で百 文、大人銭湯が六文の時代、内裏雛は一~二両、ゆとりが出来てきた商家のジジ、ババ達が可愛い 孫娘に買い与え、公家、武士の世界から次第に庶民の祝いとして慣習化され、幕府が奢侈禁止令を だす程華美になっていく。この日のお供え物は甘酒に蓬餅(草餅)に桃の花、蓬は毒を除く薬草と して知られ、この葉を蒸して乾燥して精製したのが灸に使うもぐさ、近江・伊吹山が産地である。 また桃は邪気や災いを祓う霊木と云われ、菜の花との色のコラボがいい。
もうひとつ欠かせない供え物に蛤がある。蛤は一つの蛤の貝同士でしか、ぴったり合わない事か ら、夫婦の和合と無病息災を願って供えられた。深川辺りの長屋では箪笥の引き出しを裏返しして 赤い布を掛け、自分で採った洲崎の蛤を添え可愛い娘の成長を夫婦して願った。この様に正月の七 草粥、三月の蓬餅、五月のちまき等を神に供え季節の変わり目の節を祝った。この「節句」せちく が「節句」せっくの語源になったものと考えられている。
春の彼岸
「春分」をはさんで前後七日間は「春の彼岸」御先祖様の墓参りや日本橋を起点とすると約七里半に及ぶ六阿弥陀詣に出かける。阿弥陀如来の極楽浄土は西方にあると考えられ、春分、秋分の 日、真西に沈む太陽に向け「彼岸」を求めた。仏教用語で生死輪廻する現世を「此岸」、煩悩を解 脱した涅 ねはん 槃の世界、理想の世界、即ち生死の迷いを河、海にたとえるとその向こう岸、悟りの境地 を「彼岸」と呼ぶ。因みに涅槃とは永遠の平和、最高の喜び、安楽の世界を意味する。仏(釈迦牟 尼仏)の肉体の死を指す事もある。
六阿弥陀詣は一~六番迄、西方浄土の仏様を詣でるとあの世で極楽が約束されるという。六阿弥 陀様は平安時代の高僧、行基が一本の流木から彫ったものとされるが、行基が関東に立ち寄ったと いう史実はない。参加者は大体が中高年の女性達、
六番目 よめのうわさの 言い仕舞い となり、留守している嫁側でも 彼岸中 嫁のわらいの 本音が出 とくる、お互いのうさがはれる彼岸会である。
当日は太陽の廻る方向に東から南、西へと社寺を参拝、真西に沈む太陽を拝んで西方浄土、涅槃 浄土を願った。
信心は 半分うさの 捨てところ
彼岸過ぎになると菜の花がいっせいに咲きだす。朧月夜の下に拡がる菜の花畑は幻想的で何故か 神々しい。昔どこにでもあった日本の原風景である。この菜の花が咲く頃しとしとと降る雨が「菜 種梅雨」この菜の花、種からは菜種油が採れ貴重な燈油に、故にアブラナと呼ばれ、油粕は木綿等の畑に肥料として施される。
花 見 たれとなく 起きなおきなと 花の朝
日本人の一番好きな年中行事は正月と「花見」。日本人は何故か梅よりも桜を好む。桜の花と自 分達の生き方をかぶせるからであろうか。桜の名所といえば上野の山から墨堤、御殿山、飛鳥山、 玉川上水・小金井橋と続く。四代家綱の頃木母寺辺りから始まった墨堤の植樹は、八代吉宗になっ て吾妻橋まで続く桜並木となった。今では対岸浅草側の並木と競いあい春のうららの隅田川となっ て、愛でる人々をなごませている。
文政一〇年(一八二七)の「江戸名所花暦」に春の部の花として、梅、椿、桃、彼岸桜、梨、山 吹が咲き継がれている。染井吉野は江戸末期から明治初期、駒込染井村で江戸彼岸桜と大島桜の交 種として開発された品種。従ってこの時代以前に描かれている桜は染井吉野以外の品種という事に なる。
花見と云えば花より団子、江戸っ子達は煮〆や混ぜ御飯の弁当を持って方々の桜の名所を廻った。 一般的には桜を眺めながら、徳利の酒を飲み、重箱の肴を食べ、三味や踊り、駄洒落で楽しむ。中 には飲み過ぎて、
花の山 よろけるたびに 人が散り
紀州家老付の侍医の江戸日記によれば、「花の頃は今日は飛鳥山、明日は上野、翌日は向島、日 暮里と日に日に花に浮かれ出て、三味を引きまとい、興酣(酒を飲んで楽しむ)に狂い居れども、 行厨(弁当)は至極質素にて多くは掻きまぜ酢(ちらし)又は粗物の煮〆等なり、予の如き勤番者 は三二銭の流し樽に酒を入れ、折入の酢を携え終日の楽しみとす、天保銭三枚を命の洗濯に費やす のみ」長屋の花見同様質素な花見の光景が伺われる、しかし、花の下で飲む酒は地酒が灘の生一本 になり、沢庵が玉子焼きになるが、おちゃけはどうしても酒に変身しないのが残念である。
一方、傾城の町吉原では、仲之町に花の期間桜を植えてお客を呼び込む。一面には廓の外に出ら れぬ遊女や禿達にも、桜を見せ様とする配慮でもある。遊女常夏が詠んだ句に
憂き節も しばし忘るる 桜哉
がある。桜はしばし浮世の辛さを忘れさせてくれる。
静心なく花が慌ただしく散った後は、気が抜けて陽気の良さにぼ~うとしている間に、姥桜、葉 桜となり、躑躅が野山を赤く染めだすと季節はもう夏を迎える。
〈夏〉
八十八夜
立春から数えて八十八日目は「穀雨」の頃、夏も近づく「八十八夜」この日を境に遅霜による農 作物の被害の心配はがなくなる「八十八夜の別れ霜」、数日後「立夏」となる。茶摘みの最盛期と 同時に、胡瓜や茄子等野菜類の植え時となる。夏は「立夏」から、これより小滿までを初夏月、一 年で最も過ごし易い季節、新緑の木々の間を薫風が吹き抜けていく、針葉樹がとばす芳香性の香り (フィトンチット)を全身に浴び、森林浴には最適の季節となる。初夏を知らせる時鳥(ホトトギ ス)が鳴き始めるのもこの頃、不如帰、杜鵑、子規とも書く。
不如帰 銚子は国の とっぱづれ <子規>
海辺は、千里よせくる海の気が、松林を吹き抜ける潮風となって潮騒とハーモニーして気持いい。 鋭い声をあげて啼くほととぎすの初音が聞こえるのは初夏の頃、この鳥万葉の昔から詩歌に詠ま れる数が多く、古今和歌集・夏の部では三十四首中二十八首、後撰和歌集・夏の部では七十首中 二十八首であるが、小倉百人一首では、
ほととぎす鳴きつるかたを眺むれば ただ有明の月ぞのこれる
何故か一首のみである。
端午の節句
五月五日は「端午の節句」男の子の節句であるが、本来は女の子の節句であった。邪気を払う菖 蒲の葉を屋根に葺き、菖蒲湯に入って一年の無病息災を願う。
いずれ菖蒲か杜若といわれる様に、菖蒲は女性の代名詞として用いられ、
よそに思いし昨日の菖蒲 今日はわが家の妻となる 〈山家鳥虫歌〉 隣へも 階子(はしご)の礼に あやめ葺き
この菖蒲の文字が「尚武」と音が重なる事から、次第に男の子の節句に代わっていったといわれ る、珍しく男性優位の話である。端午は始まりを意味する「端」と「午」で、本来は月のはじめの 午の日を指した。古来中国では五月は悪月、五が重なる五日は最も災いがある日とされ、漢の頃か ら災厄を払う節目として端午の節句となっていく。また日本でも「五月忌み」といい、早乙女が家 にこもり身を清めて田の神を迎える風習があった。これらの風習が夏の前の禊を行う端午の節句と なっていった。鍾馗様は悪霊や邪気を退治する神様、鯉は立身出世の魚、五月の空に泳ぐ鯉幟は江 戸中期頃より江戸の空から子供達を見守ってきたといわれる。
江戸の夏は夏でまた忙しい。金魚売り、団扇売り、風鈴売り、虫売り、朝顔売り等の物売りが声を上げて町を練り歩き、初鰹を担いだ棒振りが巷を駆け巡る様になるともう江戸っ子達は落ち着か なくなる。端午の節句が終わったなと思ったら初鰹を食べる算段をしなければ、江戸っ子の名がす たるとばかり、「女房を質に入れても」となる訳であるが、生きてる、口のついている女房殿を質 屋が預かる訳がない。そこでこっそり女房殿の冬物を入れるのだが、その時金がないものが後に なって出来る訳がない。寒くなってばれて一騒動、更に敷かれる人生が続く事になる。
初鰹 銭と辛 からし 子で 二度涙
今は生姜醤油、その頃は辛子味噌で食べた。
七 夕
牽牛星と織女星が一年に一度天の河で出会うのが「七夕」中国では七夕の事を、巧みになる事を 乞うを意味する乞巧奠(きっこうでん)と云った。日本でもこの要素が採り入れられ、七夕飾りに は陰陽五行説に因む五色の短冊に、習い事の上達や恋愛成就等の願い事を書いて、笹竹に飾り星に 思いを託した
四方から 筆 フデ をつっこむ 天の川 青紙は 母に書かせる 天の川 目立つ明るい色の短冊には娘達が書き、地味な青色が母親に廻ってきた。娘を思う母親がそこにいた。今はどうであろうか。母親としてより我が身の方が可愛い自分がそこに居る様にみえるが如 何であろうか?
歌川広重が最晩年の安政三年(一八五六)から五年にかけ発表した「名所江戸百景」の内自宅の 物干し台から描いた「市中繁栄七夕祭」には笹竹に短冊、吹き流し、瓢箪等が凬に泳ぎ、広重が生 まれた定火消屋敷や火の見櫓、遠くに富士の山が端正に描かれている。
長屋では七月七日は住民あげての井戸浚いの日。一年間の塵、芥を大掃除。終わると塩と御神酒 を供え、今年もいい水をと願った。たまに持ち主のいないかんざしなんかが出てくると、それはそ れで大騒ぎ大体が日頃行いの悪い奴のせいにされる。とんでもないツケが廻ってくる。
井戸さらい でるにでられぬ 妾宅
井戸さらいの日とは気づかず、訪ねてきてしまったうっかり者がいる。早く帰らないと奥様にば れるし、出ていくと長屋中にばれるし。
両国の川開き
夏の風物詩、其の壱は「花火」両国の川開きは旧五月二八日から八月二八日迄の三ヶ月間、打ち 上げ花火は享保一八年(一七三三)吉宗の時代飢饉とコレラによる死者の慰霊と悪疫退散を祈願し た水神祭。両国橋界隈は屋形船や屋根船で川が埋め尽され、因幡の白兎よろしく船から船へ歩いて 対岸に渡れる程の混雑ぶりが「江戸名所図会」両国橋に描かれている。その間を物売りのうろうろ舟が活躍、この三ヶ月両岸の水茶屋等は夜の営業を許された。
一両の花火 間もなき 光哉 この人数 舟なればこその 涼哉 <其角>
其の弐は「夕立」
夕立に 取り込んでやる となりの子 本降りに なって出てゆく 雨宿り
雨宿りで知名度の高い武将は太田道灌、兼明親王の七重八重の歌を知らず、以来無教養を恥じ学 問に励んだ結果、
雨宿り から両道な 武士となり 七つ下りの雨と四十過ぎの遊びはやまず どうせ一生のうちするものなら若いうちの方がいい。一人者だと何とか戻しも効くし周りも寛容 だ。その点雨は容赦はしない。しばらくしたら止むだろうとタカをくくっていると土砂降りになっ てくる。広重の作品の中でも傑作といわれる名所江戸百景「大はしあたけの夕立」では見事に降り しきる雨が描かれており、後期印象派のゴッホがこの作品を模写している。夕立があがるとさっき までの蒸し暑い風から少し冷気をおびた風が川面を撫で欄 らんかん 干の上を通り過ぎてゆく。男ならずとも女も思わず胸を開きたくなる一瞬である。
夕涼み よくぞ男に 生まりけり かんざしで 星の名をきく 夕涼
気象庁では最高気温が二五度以上を夏日、三〇度以上真夏日、夕方から翌日朝迄二五度を下らな い夜を熱帯夜という。アフリカのサバァンナではない東京でよく聞くニュースである。コンクリー トジャングル化された東京では夜も大気が下がらず、クーラーの熱気がまたそれを加速させると云 う悪循環が繰り返されている。日本橋の水撒きでは到底追いつかない。
盂蘭盆
一三日は夕方先祖の霊を迎える為に迎え火、一六日の夜には霊を送る為に送り火を焚く。これに あわせて踊られる「盆踊り」は先祖の霊を迎え、送る事から魂祭りとも云われた。死者を供養する 念仏踊りが始まりとされ、本来は七月一三~一六日迄の満月の月明りの下で踊られた。
月へなげ 草にすてたる 踊りの手 草市へ 娵(よめ)は着替えて しかられる
お盆の前に開かれる「草市」は盆市とも呼ばれ、七月十二、十三の両日、早朝から灯篭や草花、野 菜等を売る露天商が江戸のあちこちで立ち並ぶ庶民的な市で、高価なものは売っていない。そこへ着替えていくものだから、早速姑に叱られる。ここにも嫁、姑の生き方、考え方の違いが出てくる。
旧八月一日は「八朔」天正一八年(一五九〇)家康江戸入府、御討入りの日である。秀吉の奧州 征伐に従い宇都宮迄同道してきた家康は、秀吉の許しを得て武蔵府中で甲州軍団と江戸先住の者達 の先導で、甲州街道から大田道灌の築いた江戸の城に入った日である。この後幕府では八朔を正月 に次ぐ重要な日と定め、諸大名達が白帷子で江戸城に登城、八朔の儀式を行う。また新吉原でも、 この日は遊女達が白無垢を着てお客を迎える。
この八朔の日は太陽暦では九月初旬から中旬の頃、それまでは白い袷を着ていたが、寛文の初め の頃になって(一六六○年代)八朔なのにその日は何故か肌寒く、風邪もひいていた遊女・夕霧は 白小袖を着こんで店にでた。白絹の小袖は真綿が入っているため袷より見栄えがいい、夕霧と小袖 がよくマッチ、これを見た朋輩の遊女たちも翌年から白小袖を着て店に出る様になりこの慣習はそ の後も続く様になる「異本洞包語園」
八朔に 人の思わぬ 汗をかき 貰うものなら 夏でも小袖
馴染みの客にやっと白無垢を買って貰ってやれやれの晴れ姿である。尚、無粋な話で恐縮である が、白無垢の着物は八朔が過ぎると質入れされて、どの遊女も現金にしたといわれる。現代の女性 達も沢山作った彼等たちから全く同じ物、それもなるべく高い物をプレゼントしてもらう。そのひ とつだけを残してデートの日に大事そうに見せながら、他の同一品はちゃっかりと下取りさせて現金化する。このノウハウは吉原のお姐さん達から学んだものか、自分達のレシピか定かではない。 只はっきりとしている事は遊女達は最低限の生活また家族を護る為に現金を必要とした結果の行為 であったと思えるが、現代の娘達はただ、自分達が遊ぶ為、贅沢の為のビジネスであり、そこには 色気もそっけも情もない。
八月の 二日質屋へ 雪がふり
蒸し暑い夏も終わる頃、夜中じゅう降りしきった大雨がカラリと上がった翌朝は、昨日までの空 とちがい、やたらと碧く晴れ渡り凬も爽やかになる。涼風至リ、寒蝉ガ鳴ク「立秋」である。それ ぞれの夏の想い出を残して今年の夏も終わりを告げる。
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