<天之巻>第20章 江戸歳時記・春秋暑寒

<二十四節気・七十二候>江戸の歳時記(年中行事)は町人、農民達がその土地、その生活の中で季節の折り目毎に育て、 伝えてきたものである。また、地方からの人々が自国での行事を江戸に根付かせたものもある。中国から伝わった暦は一年を「春夏秋冬、春秋暑寒」に分け、四季を季節の移ろいにあわせ六等 分にしたのが「二十四節気」である。春は立春、夏は立夏、秋は立秋、冬は立冬からそれぞれの季 節に変わっていく。「雨水」「啓蟄」「穀雨」など漢字二文字でその時期の特徴を見事に表現してい るのが二十四節気である。さらに節気を三等分にし、一年を七二の気候に分けたのが「七十二候」である。七十二候はほぼ 五日間ずつの自然の変化を「桜始めて咲く」等と、漢詩の一節に込め季節感を見事に表現、紀元前 黄河流域で考えられたものとされる。 「気候」とは二十四節気の「気」と七十二候の「候」を合わせたものであり、四季の変化は地 球が太陽の周りを回る公転面に対し、地軸が約二三・四度傾いている事からくる事は昔理科の先 生から教えられた筈である。また、陰暦の一ヶ月は新しい月が始まる「月立ち」をついたち(朔 日)と呼び、月が隠れて見えなくなる月末を「月ごもり」つごもり(晦)、晦日(三十日)と呼ぶ。一五八二年   ローマ法王グレゴリウス一三世によって改正、施行された新暦、「グレゴリオ暦」は 三六五・二四二五日が一年。四〇〇年間に九七回の閏年がくる。日本では明治六年から使用、それ までの太陰太陽暦に代って「新暦」と呼ばれる。

〈正月〉 目を明けて   聞いているなり   四方の春     江戸の正月は寝正月。元旦の明け方近くまで掛け売りの集金にかけずり廻り、一方支払う身の庶 民は何とか逃げ切り、双方やれやれの元旦の朝を迎える。薄目を明けて家の廻りの景色を伺ってい る。子供達が興じる凧あげ、独楽まわし、羽つき、ただ聞いているだけで正月気分になり、安らい でくる。そして、我が子の為、女房殿の為、今年こそは何とか頑張ろう、ああしようこうしようと 考える。「着眼大局」である。紙に書いて神棚に貼ってはおくが「着手小局」する前に、その紙が 風に飛んでなくなる頃は、本人はすっかり忘れている。早い人は一晩寝ると忘れている。そこがま た江戸っ子のいい所でもある。片や武士諸君はそうはいかない。元旦早々から身仕度を整え、今年も宜しくですと上司の家々を廻る。宮仕えにとって正月は先である。旧暦の元旦は立春前後の最も近い朔日で、中国では「春 節」、ベトナム「テト」、韓国「ソルラル」と呼ぶ。二日は商人達が扇子を持って年始まわり。その夜見る夢が初夢、一~六日迄が松の内「 松の内 うちの女房に 惚れなおし」 少し化粧して若がえった奥様に二度ぼれしている。それともお屠蘇が利いたのか。七日は「人日 (じんじつ)」「七草粥」。セリ、ナズナ等春の七草を入れたお粥で疲れた胃を休める。また、七日ま でが七福神詣。享保年間の谷中七福神が最も古いとされ文化文政年間になると太田蜀山人、酒井抱 一、川上不白等が近在の社寺に七福神を配した隅田川七福神詣(ex向島百花園・福禄壽、長命 寺・弁財天、三囲神社・大黒、恵比寿等)が加わり、一日を縁起をかついで巡った。

<雪 見> 正月を過ぎると冬の寒さは一段と厳しくなる。東京でもちょいと雪が降ると交通機関がマヒし大 騒ぎとなるが、江戸の頃も隅田川に氷がはる程寒い時期もあった。従って雪も良く降った。風流な 江戸人は初雪でも降ると、わざわざ墨堤や上野の山、湯島、神田明神、王子、愛宕山、高輪辺りま で「雪見」に出掛けた。「 いざならば   雪見に   転ぶ所まで」 <芭蕉> ゆとりのある風流人は大川に屋根船をうかべ、炬燵を暖め辰巳か柳橋辺りの姐さんの酌で、障子 の隙間から岸辺の雪見と洒落た。勿論酒は灘の下り酒である。こんな嗜好も地方の人々にとって馬 鹿らしい。「雪見とは   馬鹿馬鹿しいと   信濃言い」

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