江戸のリサイクル

消費は美徳?

  現在では使えるものでも何でも惜しげなく捨てる。捨てる事が美徳であるかの様に捨てる。現代 の人間が飽きっぽくなってきたのであろうか、いや江戸っ子だってかなり飽きぽかった筈である。 では居住空間が狭いからいらなくなったものを捨てるのであろうか?   いや、江戸庶民の住いは九 尺二間、ここまでは現代狭くない。ではでは、所得の割には安く物が買えるからであろうか?   し かし家賃等で江戸と比較すると、大工なんぞは二日も働けばその月の家賃は賄えた。現代は違う。 地方の新人類が東京で生活を始めるとなると、給料の約半分は家賃、電気、ガス、水道、携帯で消 える。だから、東京娘は三十過ぎても親元から離れない。いや離れられない。

 

が旺盛に尚且つ物を買っては捨て、捨ててはその空間を埋める様にまた買い込んでくる。安く 売っている物は買わないと損だと意識がある。とりあえず買っておく。買っておくが使う訳ではな い、置いておくだけである。昔、江戸の長屋のカミさんは台所に米と味噌の買い置きがあると安心 して寝れたと云う。これと同じ理屈であろうか、物に埋まっていると安心するのである。

  そしてその物が定期的に入れ替わる。日本経済を私が支えてやっている意識の下に、使い捨ては 美徳となっている。糟糠の旦那様も危ない時代である。

  ここで江戸小咄をひとつ。   昔から金の切れ目が縁の切れ目といわれるが、現代の女房殿は通帳、長屋のカミさんは 台所の米、味噌等日常食品の残高が少なくなってくると不安になってきた。

  「お前さんどうしょう、米や味噌、醤油までも切れてるよ」   「へぇよくもそんなにきれいに切れたもんだね、まだ切れてないものがあんだろうが」   「いやないね、あたしもねそろそろお前さんときれいに切れようと思ってる矢先だよ」

  明暦元年(一六五五)ゴミに関する法令が幕府より出された。ゴミを川に捨てない事、出したゴ ミは舟で永代島まで運んで捨てる事等。

  元禄九年(一六九六)江戸亀井町の新五兵衛と小伝馬町の甚兵衛なる者二人に、①ゴミの回収料 を安くする、②川を浚渫した泥土や町からのゴミで陸地を造成する事を条件に江戸中のゴミ回収を 請け負わせ、江戸のゴミ収集、隅田川の浚渫、埋立地の造成等のいわゆるゴミ問題の解決を図って いる。表店の会所地や裏店の共同ゴミ溜めから運ばれ埋立られ、造成地が拡がっていった。東京湾 埋立の歴史の始まりである。

灰も財産

  江戸庶民のリサイクル度一番は繊維類の徹底的な利用であろう。現在では自分で着るものは自分 で選んで買う。たまにプレゼントもあるがやはりなげ無しの金であちこち店を歩きやっと合点して買ったものはトコトン着る。やはり貰い物はしっくりこないで御蔵入りとなる。日本人の大人は一 生着きれない程の在庫を抱えていると云う。江戸時代はそうではなかった。

  当時繊維類は極めて高価であった為、人生おぎゃと生まれて先ず親に一着買って貰い、次は嫁に いくか婿にいくかで一着   運がよければ孝行息子か嫁に何かの祝いに新調してもらうのが一着、最 大三着が人生の中で新着に袖を通す機会であった。ではそれらが着れなくなったらどうしたか。庶 民が日常着る着物は柳原土手か浅草辺りで買ってくる古手、正宗とも云われた古着が当り前であっ た。これも毎日同じ物を着るから当然擦り切れてきたり、引っかけて切れたりする。するとぼて振 りの「小切れ売り」がやってくる。

  團十郎や玉三郎の歌舞伎柄等から好きなものをあてがい仕立てなおす。江戸で一着しかないオリ ジナル製品の出来上がりである。それでも毎日着ていると「経年効果」で向こうが見えてくる。我 慢の我の字が限界を越え、糸を抜いておむつとなる。何度も洗濯され薄く柔らかい生地は新生児の 肌に優しくフィットする。現代のママは使い捨て紙おむつである。江戸のママは何度も盥で洗い物 干し竿に通す。一人の子がおむつを離れる頃、そのおむつも形をなさなくなる。そうなるとおむつ は雑巾に変身する。この雑巾も毎日砂埃の部屋をこすっていると手で握って絞れなくなる。形をな さない雑巾はへっついにくべられ暖かい御飯の燃料となる。ここで着物の生命がつきたかと思われ るが、どっこい江戸にはかまどの灰を買い集めに来る「灰買い」がいた。竃の灰を染めや製糸の行 程で使用したり畑の肥料に使い、木綿、麻が育ち、加工され繊維となる。エンドレスのリサイクル 世界である。正に「かまどの灰までも俺のもんだ~」と灰までも貴重な財産のひとつであった。

  かって中世ヨーロッパにおいて、周期的にペストやコレラといった経口伝染病が流行した。大雨 や洪水によりテームズ川やセーヌ川、ドナウ川が氾濫し、汚物を含んだ下水道の水が上水道に流 れ込み、それを飲んだ市民が発病したのが原因とされる。大きな犠牲を払った当時の為政者達は、 「魔女狩り」と称してかよわいスケープゴートをつくり上げ、宗教という名のもとにその責任転嫁 を繰り返した。

  江戸でも幕末コレラの大流行をみた。この時幕府は魔女探しに翻弄せず自らの責任と、民間医療 機関とチームを組み治療と治安に全うした。ここに西欧諸国と違った庶民に対する温かみがある。

金   肥  

 江戸時代、人間の排泄物、下肥は化学肥料のない時代貴重な肥料=「金肥」であった。人間一人 の年間排泄物の値段は米一斗に匹敵した。くみ取り=下掃除の権利は周辺農家の財産であり、逆に 江戸市民はくみ取り代金を貴重な収入源とした。 「南総里見八犬伝」でお馴染の滝沢馬琴家では正保元年(一六四四)練馬の農家と年間、家人 一五歳以上の者一人につき、干し大根五〇本、茄子五〇個で等価交換の契約をしている。また、長 屋の共同厠は深川・本所では葛西辺りの農家が水路を利用して回収に廻り、大家に金子の他野菜、 漬物等現物で払った。大家にとってこの報酬は管理料としての収入以外の別枠所得、それでは如何 なものかと云うことで、年末になると餅を搗き長屋の住民に配られた。

  店中の   尻で大家は   餅をつき  

  今、餅は水と共に流されていく。回収された下肥はある程度期間をおいて化学変化をおこさせ肥 料効果をあげて作物に施され、成長、採り入れ、販売、食卓にのぼり、また農家の手によって回収 されていく。

  ここでも無駄がない効率の良い循環型リサイクルが構築され、江戸は世界でも類のない環境衛生 都市の地位を築いた。因みに其の壱   農家は下肥を回収するにあたって作物に与える肥料効果を考 える、そこで回収する相手の生活程度をみて、「庶民の多い長屋では余りいい物は食べていなかん べぇ」「従っていい下肥は期待できなかんべぇ」って事で一番安い値段で回収した。江戸時代食生 活が一番豊かなのはやはり商人であろうか。

  其の弐   西欧社会ではレデイファーストが常識である。何処に行くにも女性が先に歩き、先に椅 子に座る。中世の西欧の町では公園や街路の陰が共同のトイレであったり、アパート辺りでは入れ 物にためておいた物を窓から捨てた。このリスクを避ける為、先ず女性を先に歩かせ確認し、その 後男性がついて行く、あの大きな帽子とフレアスカートはその為だと。これがレデイファーストだ との御意見もあるが、やはり本来は弱い女性をエスコートしているナイトの為せる技と考えるのが 妥当であろう。

損料屋

  朝も明けると江戸の街々にはいらなくなった物を回収したり、こわれた物を直す業者が独特の掛 け声をあげて商売した。 「鋳掛屋」鍋、釜等の穴を修繕、「雪駄直し」雪駄は草履の裏に皮を張ったもの、裏を張り替える と長持ちした、「紙屑買」古紙、古布等を買い取り再生した、「髪買」おちゃないともいう、女性の 抜け毛を買い集めかつらの材料とした。貧しい家庭の女性は自分の髪を売って家族を支えた「、とっ かえべぇ」古鉄と飴を交換する商売、もともとは寺の鐘を勧進するために鉄集めをした。こうした 古鉄買い、古着買い、古道具買いは幕府の認可制度の商売であり、鑑札を必要とした。 「鳥糞買」鶯の糞を美顔の材料として買い取る専門業者がいた。「焼継屋」割れた瀬戸物を硝子と 鉛を混ぜた接着剤で修理する商売、高級な漆器等は金と漆で修復「金継」と呼ばれた。「蝋燭のた れ買」蝋燭のたれた蝋の部分を回収再生した。蝋燭は行灯の四~五倍の明るさがあったが、値段は 百目蝋燭で一本二〇〇文約五、〇〇〇円もした。また、菜種油も高く一合四〇文、従って庶民は悪 臭がして油煙が多く出る魚油を使用した。これでも他の物価と比べ高価であった為なるべく早寝に 努めた。

  現在のリサイクル業に近いものに「損料屋」がある。今でいうレンタルショップである。長屋の 庶民は季節用品はもとより畳から蒲団までレンタル、一番の得意先は「女郎屋」、宴会でお膳、食 器を沢山使う「料理屋」、果ては仏壇までもレンタル、狭い庶民の生活空間をカバーした。

  現在ではお下がりと云う言葉は余り聞かないが、チョイ前まで兄弟の多い家ではお下がりの洋服、勉強道具を使うのが当たり前であった。出来のいい兄、姉のお下がりを使うと、「お前も頭がよく なるよ」とおだてられ否応なしにまわってきた想い出がある。そんなに成績は伸びなかったが。

  現在では家庭内だけでにとどまらず、学校内でもお下がり運動があると云う。デザイナーズブラ ンドの制服なんかお下がりでも着てみたくなりそうだ。

江戸純情派「チーム江戸」

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