江戸の旅事情
♪ これこれ石の地蔵さん 西へゆくのはこっちかぇ~。
江戸の旅は勿論自分の足、足をさすりながら、足の三里に灸をしながら 目的地に急いだ。旅の 基本は早寝早起き、夜も明けきらぬ内から歩きだし、陽のあるうちに旅籠にはいった。駕籠、馬は 値段が安い朝の内から利用、足を休めておいて距離を稼いだ。現代の旅上手も午前中に時間と距離 を稼いでおくのが鉄則。その需要に応えてか全国のビジネスホテルも、朝食を早目に対応してくれ る様になってきたのはうれしい。
旅行ブーム
家康が江戸に幕府を開いた翌年の慶長九年(一六〇四)幕府は日本橋を「五街道」の起点と定め 一里塚を設けた。家光の時代の寛永一二年(一六三五)武家諸法度改定し参勤交代の制を確立。大 街道の道幅六間とし、砂利や小石で畳の厚さに整備、榎や松を植え街道の整備に努めた。江戸中期、 民政や治安の安定、庶民のゆとり度の増大や東海道膝栗毛等の旅行本や各種の案内本の出版によっ て旅行ブームに火がついた。それでも現在と違って一歩江戸の外へ出れば見知らぬ世界、弥次さん 喜多さんは家を売り、親類縁者と水盃を交わして三条大橋を目ざし、芭蕉も深川の庵を閉め「おくの細道」に旅立っている。
農耕民族の日本人は基本的には旅の好きな民族である。花見、菊見、雪見等季節毎の物見、寺社 の開帳や縁日の参詣、大川周辺の散策や涼み、花火見物等、狭い九尺二間の長屋生活から抜け出し て、思い切りお天道様の下、陽の光を浴びて、大気を吸い遠くの風景を眺め、花を愛で軽口をたた き物見遊山の日帰り旅行を楽しんだ。
次いで箱根温泉巡りから江の島、富士講、大山詣、成田山等信仰を兼ねた小旅行に出かける様に なる。因みに七日間位の湯治で大工の手間十三~十四日分に相当、湯入講は三~五年位で一度番が 廻ってきた。
江戸も中期になり、庶民の生活にゆとりが出来てくると、宝永二年(一七〇五)本格的になった 伊勢参りや金毘羅参り、西国巡礼、四国巡礼等信仰を建前にかこつけて諸国を廻る旅が流行った。 お蔭参りは明和八年(一七七一)二四~二五万人に達し、幕末にかけ爆発的ブームを起こす。
江戸の人間は地方に、全国の人間は江戸に来た。江戸への目的は、観光の他に、公事宿に宿泊し て郡代屋敷に依頼する訴訟、勉学や剣の修行、行商、商家や武家への奉公等であったが観光案内人 やガイドブックを利用して「江戸四日めぐり」を楽しんだ。四日めぐりとはその年の恵方を第一日 にとり、東は深川、亀戸天神、西は外堀から九段坂、南は愛宕山から芝増上寺、北は上野から浅草 観音、木母寺辺りまで日帰りで江戸の名所旧跡を楽しむコースで、利用されるガイドブックは江戸 のいい土産物となった。観光案内人は馬喰町の旅籠に属し、その一人、刈豆屋等のガイド料は日中 二五〇文、夜間一三〇文、一文=二五円と想定するとまあまあの料金である。
当時の旅は大変だった。街道の移動は自分の足、駕籠、馬。大名行列は殿様の生活用品を一切持 ち歩き、一般庶民も往来手形を始め金銭、薬の他に衣類は道中着の下に着物、下着は携行したが紺 の縞模様の着物は着のみ着のままで旅を続けた。その歩き方を如何に疲れず進めるかが道中の課題、 路面は舗装されておらずデコボコ、足、腰の負担は甚大。従って旅道具の利便性、コンパクトさが 至上命題。そこで登場いてくるのが旅の七つ道具。小田原提灯、折り畳むと腹の部分が蓋に収まる。 火打ち石、癪や水当りに備えた常備薬を入れておく印篭、腰弁当箱、瓢箪型の水、酒容器、時刻と 方向を知る日時計、紙算盤、筆記用具の矢立て、道中財布の早道等。
現代の旅を快適にしてくれるグッズは日経何でもランキングによると、海外で電化製品の電圧変 換に便利なシスプラ、スーツケースの上に手荷物を固定するベルト、ケースの空間を有効利用する 衣類圧縮袋、洗濯パック、保湿マスク、トラベルビロー。旅先で処分のつもりの古い下着、クツ下 類等々だが、これ等は次の旅までと延長されるのが人情で、中々心も荷物もスッキリとは処理出来 ない。
捨てる筈 過去も衣類も 持ち帰る
江戸時代、箱根の山を越える大旅行は楽隠居になってから。本音は物見遊山だがあくまでも社寺 参詣を名目に町名主にお伊勢参りの鑑札を申請、それを握って二〇〇~三〇〇両を用意、二~三ヶ 月の旅に荷物持ちの小男を連れて一日七~八時間の行程で出掛けた。現金を沢山持ち歩くと危険の 上重い、為替という手形を用意、行き先の両替商で現金化した。道中は「観天望気」空の色や風の具合で明日の天気を観察しながらのお天気まかせ、湯治場等で地元の人々と交流を楽しみながらの 旅となる。
行った先々で土産を買うのも旅の楽しみのひとつであるが、優しい江戸の御隠居は江戸で留守番 をしてくれている女房殿や可愛い孫達に自分の舌で確かめた美味しい物を飛脚便に託し御機嫌を結 んだ。旅は自分と同時に家族のメンテナンスにも気を配らねば心からのいい旅は出来ない。
大名の泊る宿は「本陣」家来は「脇本陣」一般庶民は「旅籠」と呼ばれる宿屋であり各宿場毎に 立ち並びお客をひいた。宿屋では付加価値を高める為「飯盛り女」をおいたが享保三年(一七一八) 吉宗の時代、旅籠一軒につき二人までと定められた。
飯盛も 陣屋位は 傾ける この川柳からすると花の吉原の如く城まではいかずともそこそこの人材を集めていたと思われる。 この宿屋朝夕食事がついて一泊一五〇文前後、予算を考える人は食事も風呂もつかない「木賃宿」 は素泊り一泊三〇文程度。宿屋では先ず着くと土間で足を洗ってくれ、お客の都合か宿の都合で風 呂、御飯とくる。今でも帰宅すると足は洗ってくれないが「貴方、御飯、お風呂どっち?」と婚歴 の短い妻は聞く。そのうち夫から「飯、風呂、寝る」と発する、この三言で終わるエコ夫婦が現代 では多くなってきた。が、こうやっていると夫は定年後、見捨てられる羽目になる。この頃、妻は しっかりと準備完了となっている。
旅の用心集
江戸の頃の「道中用心集」にはこう記されている。旅の初日はとりわけ静かに足を踏みしめて、 草履が足に馴染んでいるかと確かめ、二~三日は時々休んで足を痛めない様にする事。持っていく 物は懐中物の他はなるべく少なくし、沢山あると失くしたりしてかえって煩わしい。宿へ着いたら 家の造りや表、裏の出入口等を見覚えておく。道連れにいない方がよい人は、大酒飲み、癖のある 人、癇癪もち、喘息等持病を抱えている人、等現在でも通じる項目である。また、道中一緒に行く 人達の家族とも連絡をとり、途中で死亡した場合の処置の一筆、一人者に限らず「この者は我が寺 の檀家であり、決して禁制のキリシタンではない」旨の寺証文と関所手形を揃えさせた。これらが 無いと大ぴらには旅に出られない時代であった。
こう云う風に身支度を整え健康に気を配って、旅に出掛けてもそこは人間、生物である。いつ何 処で風邪を引き、ぬかるみに足をとらえて転倒、最悪おいはぎに全財産をはがされないとも限らな い。特に女一人旅は難儀な旅であった。こうした事故、怪我、病気、金銭の問題によって「行き倒 れ」になる人も多くいた。
旅人は懐に「一筆啓上 若しこの者相果て候はば 其の所の御作法にて御取り置き下さる可く候 其の時 此の方に御知らせに及び申さず候也」との書状といくばくかの金子を含ませ街道を急いだ。 街道筋行き倒れる旅人も多く、在所、名の解らぬ人達はそのまま近くの無縁墓地に葬られた。また、 見つけられて寺に眠る人達は運がいい方で野倒れ死にのケースもみられた。
インフラ、事故情報が整備されている現代でもこうした例は多く、現行の民法でも「行旅死亡人」として法文化されている。「行旅死亡人ト称スルハ 行旅中死亡シ引取り者ナキ者ヲ謂フ」「住 所 居所若ハ氏名知レズ 且 引取者ナキ死亡人ハ行旅死亡人ト看做ス」現在でも所在地の市町村 が担当、手厚く葬られている。有難い事である。
青春 18 きっぷ
現代版国内旅行の目玉商品は「青春 18 きっぷ」この切符 18 と唱っているが年齢制限なく誰でも使 える優れ者、五回分の乗車券が一枚になっている切符で一一、八五〇円、一回分二、三七〇円。この 切符を勿論一人で五回。他の人を交え五回分使用しても良い。さらに朝の始発から夜の終電まで、 普通や快速電車なら何処の路線を利用しても二、三七〇円である。二、三七〇円は営業㎞で一四一㎞、 東海道本線なら吉原、これ以上先に乗ると元がとれる。
因みに夜行快速「ムーンライトながら」で前夜JR東京を発つと日付変更が小田原、ここまでを 普通券で乗り、ここから 18 きっぷを利用するとその日の内に熊本辺りまで伸びる。正に 18 の醍醐味 である。こうして乗る事が好きな鉄道ファンを「乗り鉄」と仲間では呼ばれる。こうした猛者達を 尻目にリタイアした昔の若者達が全国JR乗り潰しの旅なのか、テーマを決めて巡る旅なのか、昔 から行きたい処へやっと向かっている旅なのか、スマホ片手に一人旅を続けているのを見ると微笑 ましい。
何事も なくて帰るが 旅上手
◇キーワード◇
観天望気
自然現象や生物の行動の様子等から天気の変化を予測する事。統計学的に気象庁発 表の天気予報的中率は 80 %程度といわれ、残る 20 %はは観天望気から予知できる 場合が多い。世界でも広く浸透している天気の諺として「夕焼けの次の日は晴れ」 「太陽や月に輪(かさ)がかかると雨か曇り」等がある。
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