江戸の化粧
わいするもの 化けるもの
男心をゆするもの あたしの一生きめるもの
おしゃれな家康 「化粧」とは国辞林によると、紅、おしろい等を使って顔を美しく飾ること、けそう、おつくり、 身じまい。江戸時代では「けわい」と読ませる事もある。他人に対して気配、気配り、気遣いを意 味したものと考えられる。
女性は太古の昔より、人にもよるがメイクを入念に施し、頭のてっぺんから足の爪先まで、自分 が見ても他人様が見ても良ろしいか、良ろしくないか、一部の隙もない様に仕上げる。一方野郎、 失礼男性諸君はせいぜい前日風呂で髭をそり髪の毛を洗う位で、いつもの背広に身を固めて職場に 向かう。
では、男は身だしなみに関心がないのかと云うとそれは大きな認識の誤りである。あの質実剛健 で無駄は嫌いだとされる家康でさえ、失礼家康も「徳川家康公御遺品文書目録」には辻ヶ花染の小 袖一九領、同じく胴服一〇領が載っている。さらに薬研で創作したものであろうか、沈香、白壇、丁字に胡麻油等をブレンドした髪付油を使用していた。これは良い香りのするリキッドで、寛永か ら正保期にかけて商品化され売り出されている。
江戸の化粧・美意識は「薄化粧」京都で生まれた化粧法が大坂、江戸へ教訓物や往来物、化粧書 を通じて伝えられた。元禄五年(一六九二)から宝永三年(一七一一)にかけ人気をよんだ京の町 医者、苗村丈伯書「女重宝記」によると「なるほど(できるだけ)こまかなるおしろいをうすうす としてよくぬぐい取給ふべし」と記される。明和期(一七六四~七一)になると男の流行風俗は、 路考茶、紺桔梗色で角袖の短羽織、羽織の紐は浅葱色が好まれた。 「当世の人は馬鹿にして自分の物好きが出来ぬとみえて、商人の方から物好きをしてもらうか ら、百人が百人ながら同じ形」と「当世穴探し」には皮肉られている。現代も同じようなメイク、 ファッションをよく見かけるが、踊らされる消費者はいつの世にもいた。また「むかしむかし物 語」にも「近年は老いも若きも帯は幅広く、みなみな胸高に尻長くと出し、歩みようはどたどたと 身品もなく歩むゆえ、遠く隔りて群行くみれば、何が若手やら何が老女やらなかなか見わけ難し」 と手厳しい。
文化一〇年(一八一三)には「都風俗化粧伝」が出版され、肌や髪の手入れ方法、髪型、帯結び、 歩き方まで身づくろいの全てを紹介している。概して元禄期辺りまでは派手好みであったが、江戸 も中期となる享保期辺りから世の中の落着きさを反映してか、縞柄や鼠色に代表される地味で渋い 好みに移行してくる。
スッピンに紅
江戸の化粧の基本は、大奥、吉原の厚化粧に対抗して「スッピン(素顔)に紅」、江戸娘のハリ のある水々しい肌を売り物にした。先ず肌の手入れに欠かせないのは、木綿の袋に糠を入れた「糠 袋」、これをお湯につけてしぼると乳液状の糠汁が出る。ただし一日のみの使用で、続けて使用す るとアクが出て肌が荒れる為要注意とされた。
化粧水は糸瓜水を使用、一般家庭では野バラなどの花びらや生薬類を蒸留して香りの良い薬用化 粧水を作っていた。式亭三馬が本町三丁目で売り出した化粧水は「江戸の水」白粉が「仙女香」ふ たつ共、自作の「浮世風呂」「浮世床」等で宣伝され、
仙女香 やたら出てくる 本の端
と揶揄された。他にも山東京伝が「読書丸」曲亭(滝沢)馬琴が「奇応丸」「神女湯」等戯作者の 副業として売り出され、自作の作品で上手く宣伝されている物も多く賢く稼いでいた。 「紅」は山形名産「ベニバナ」から抽出、歩留りが少ない為、「金一匁紅一匁」と云われる程高価、 濃く塗ると蛍光色を発し暗緑赤色になる。江戸も中期を過ぎ江戸文化が爛熟期を迎える頃、唇を濃 い赤緑色に光らせる「笹紅」と云う化粧法が流行った。この化粧法何度も値段の高い紅を塗り重ね ていかないと出ない色、頭の回転がよく計算が早い江戸娘達は「じゃ下地に墨を塗ればいいじゃ ん」てな訳で解決、大人の装いを楽しんだ。「熈代勝覧絵巻」に描かれている白粉・紅問屋は赤い 旗を揚げている玉屋「雲井香」ブランドで、京の香りを江戸の町でいかがとセールした。
トータルファッション
江戸の衣類は夏は単衣、春秋は袷、冬になると綿入れとなる。絹の綿入れを「小袖」、木綿の綿 入れを「布子」と呼ぶ。繊維類が高かった江戸時代、庶民は旧暦四月一日「衣替えの日」、綿入れ の綿を抜いて袷にする。稀に「四月一日」さんと云う珍しい苗字の方がいる。この方「わたぬき」 さんと振り仮名をつける。
ほっそりと「伊達の薄着」と呼ばれるように着こなすのが「粋」だとされ、男性は渋い着尺の下 に女性を驚かせる為に、春画や幽霊画を描いた長襦袢を着て、見えないおしゃれを楽しんだ。江戸 の女性達も頑張った。江戸では蹴出し、京では裾除けと呼ばれる、女性の腰部に巻く所謂二布、湯 文字と云われる腰巻にも素材を絹にしたり、色、柄にもこだわりをみせ、ここにも女性のかくれた おしゃれがみられた。因みに腰巻には二種類あり、ひとつは肌着として、もうひとつは武家の女性 用礼服もこう呼ばれた。これは真夏に帷子、堤帯をしめた上から腰に巻く小袖仕立ての衣装である。
色の基本は京なら黒、白、緑、黄、赤の「錦」、大坂は「三彩」、うるさい江戸っ子達は「四十八 茶」に「百鼠」、これに無地や縞を基本とした。渋い紺か鼠をベースにした縞柄の着物を着こなせ る様になれば江戸の娘達も一人前とされた。 「色名大辞典」によると全九七五色のうち、茶は一四八色(約一五%)鼠は七八色(約八%)で あるとされる。因みに日本人の黒い眼は、色を識別する能力においては、他の民族に比べ秀いでて おり、細かい文字や微妙な色の識別に特殊な能力を持っていると云われる。
時代を色にたとえると古代は白、飛鳥天平の時代は朱、平安時代になると貴族の色の紫、鎌倉・室町は茶、江戸は暖簾のイメージからか紺色だそうである。では明治以降は何色をイメージするだ ろうか? 明治維新は日本の夜明けで黄色、大正から昭和初期はまだ淡い若草色、それが次第に踏 みつぶされた茶色になる。それでも戦争に負けてセピア色から高度成長期は碧色に色づいてくる。 平成はやや疲れて個性のないベージュとなってくるが、その人のそれぞれの時代、環境により受け るイメージカラーは大きく異なってくるのは当然である。せめてこれから赤や黒の出番がない時代 になって欲しいものである。
基本的トータルファッションのマニュアルは、①白粉は水にといて素肌をひきたて、素人っぽさ を強調する様に江戸は白梅のようににあっさり、上方では牡丹のようにあだやかに塗り、口紅でア ピールした。②髪はなるべく高く結い透ける程の自然さを演出する。③袖の短い小袖を着、帯は足 を長く見せる為に胸まであげて締める。④襟は少し後ろに送らせて開き頸筋を長くみせる。④両肩 を揃え心持体を反らして歩く。如何であろうか、これでもてる江戸美人達の出来上がりである。 「化粧・けわい」は女性も男性も、①自分の身だしなみの為にするのが基本であるが、②男女共 異姓の目を意識してする、③逆に、特に女性は同性の視線から自己を庇護する為にする。究極的目 的は勿論①がベースであろうが、女性の皆様にとっては②よりも③の方がより目的意識にかなって いると思うが如何であろうか。深層心理は複雑で読めない。
◇キーワード◇
紅花
ベニバナ、コウカ、サフラワー。菊科ベニバナ類の1年草、多年草もある、雅称を 末摘花(すえつむはな)と呼ぶ。紅色染料や食用油の原料として栽培され、6世紀 の藤の木古墳から紅花の花粉が検出されている。紅は平安王朝人の口唇や頬にひか れ、衣装を桜色に染め、光源氏は葵の上を弔う喪服に使用している。古代エジプト のミイラの布の防腐剤としても使われていた。現在では食用油としての需要が多く、 最上川流域での栽培が盛んで、山形県の県花、花言葉は「化粧」「装い」。
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