第13章 江戸の男と女
表があれば裏があり、男がいれば女がいる。女は男の肋骨一本から生まれてきたと云われる。そ の一本が人生のかけがいのない伴侶となる。たかが一本、されど一本である。その一本に深く深く 付き合えば付き合う程、素晴らしい、また人によっては忙しい人生が拡がっていくから面白い。昔に比べ男性諸君は弱くなったと云われる。弱くなったのか、相手の女性陣が強くなったのか、 また無用な争いを避ける為、寛容を装い徐々に妥協した結果優しく見える様になったのか定かでは ない。その定かさを江戸の男と女の関係から考察、確認出来ると現代の男と女の関係も見えてくる。さあ、その江戸時代数字的には絶対優位にあった女性陣はその時代どの様な生き様をみせたのか 興味はつきない。生態的な男女出生率は男105 vs 女100、5人多く生まれてくる男がある時点 で少なくなる訳は?本質的に女性は体が強い、抵抗力がある等の理由の他にもっと理由があるはず である。
①江戸の男女比
家康が関ヶ原の戦いに勝利、江戸に幕府を開く、①臣従した大名、その家来達が江戸に屋敷を構 えた、②消費するだけの武士集団を相手にする伊勢、近江等関西勢の商人達、③江戸の城や街を造る為に集まった労働者達、いずれも男達である。こうした事情により初期の江戸の男の数は女の約 三倍、中期になって約二倍、やっと平均化するのは幕末になってからである。女を100とした江 戸の時代別男女の比率はこうなる。享保6年(1721)男180、寛政10年(1798)男 135、天保3年(1832)男120、慶応3年(1867)男102。女性の圧倒的優位さが 数字に現れている。 現在では20代を過ぎ30路を越えアラフォになっても嫁にいかない人はいかないし、婿もいら ない人は沢山いる。おまけにいった後に帰ってくる所謂バツ一、バツ二組も加わって、あちこちに 「平成・令和出戻り横町」が出来ている。 また幾つになっても元気な女性が多いが、江戸の頃も若い頃から元気で、15~18歳位までが 娘盛、19歳位までには結婚、20歳を過ぎると「年増」と呼ばれ、チョイといき遅れの感があった。 因みに女の厄は一九歳、川崎大師に厄除けの参拝にでかけると、「 厄除けに いく振袖は 売れ残り」 と皮肉な川柳を詠まれた。25歳を過ぎると「大年増」30路は「姥桜」となる。大奥ではお手付き女﨟がおしとねすべりとなって、後進に道を譲る。高年齢出産を避ける為である。 現代ではここからが熟年人生となる。「咲いてから 盛りの長い 姥桜」の時代である。
今ではほとんど使われなくなった言葉にこんなのがある。小学生低学年位の女の子をそんなん じゃお茶引きになってお嫁にいけないよと「おちゃぴい」と呼んだ。中学生位の元気のいいはねっ かえりを「じゃじや馬」お転婆で少々男っぽい高校生位を「おきゃん」それ以上年増の部類に入 ると大人の女「あだ、仇、婀娜」とくる。さっぱりとした色気に加えて、意気地と張りがあり、 危険な香りがする人生の経験を積んだ情の深い女性達がここに入る。「 れていても れぬふりをして られたがり」 各々の冒頭に「惚」の字を充てると、江戸娘の気持ちがよく理解できる。江戸時代、娘と女の境 は一般的に元服まで、女の元服は18から19歳頃迄、若しくは嫁入り前迄とされた。
②見合いと結婚
当時は連帯責任の社会であった為、自由恋愛は少数派で見合い結婚が基本であった。寺や神社の 境内や茶屋、道の通りすがりに仲人とチラッと見定めるのが「お見合い」仲人がその日だけ見栄え のいい娘と替える可能性もあり、「 見ましたは 細面だと もめる也」 デートスポットは出てくるまで時間のかかる鰻屋や料理茶屋、お天気がよければ麦畑、茶屋など では男性が好きな娘の為に、小鍋に湯を入れ醤油、味醂、ダシで味付け、そこに短冊の油揚げを入れ煮たて、とき玉子に三つ葉を散らしただけのいともシンプルな「あぶたま」を作ってやる。今の 「もんじゃ焼き」みたいに作りながら会話を楽しむのである。これを手早く作るのももてる秘訣で あったが、何と云っても決め手は「 惚れ薬 佐渡から出るが いっち好き」 いつの世も気持が通じるものは、命の次に大事なものだった。こうして上手く続いてゴールとはい かない場合、駆け落ち、心中となる。「駆け落ち」の字を充てると許されない男女が出奔する事を 指して可愛いが「欠落」をかけおちと読ませると、不斗出と云って理由もなく何処かに蒸発、犯罪 による逃亡、借金からの夜逃げ、伊勢(おかげ)参り、等を指したがいずれにせよ、伊勢参りを除 いて江戸社会からのドロップアウトは難しい選択であった。
さあいよいよ結婚。江戸時代の初婚平均年齢は男二五~二八歳、女は一八~二四歳、さほど今と 変わらない。地域的には概して「西高東低」、東北地方では労働力確保の為早婚、畿内では晩婚で あった。「 嫁と猫は近所から貰うな」 嫁と猫の因果関係が複雑であるがこう云われた。また年上の女房は相性がいいとされ「ひとつ年上の嫁は金の草鞋でさがせ」とも云われ「 九尺二間に過ぎたるものは 紅のついたる火吹き竹 」の新婚さんの時代はすぐ終り、 「 間男をせぬを女房は恩にかけ」 「 百両はなくなり顔は残る」 持参金はあくまでも女房のもので亭主が勝手に処分出来ない。離婚ともなれば返済すべき性格の ものであった。が、江戸の女性は夫に対する強さと家族に対する優しさを持ち合わせていた。 因みに「恋」は落ちるもの、「愛」は語るもの、「情」は絆されるものと相場は決まっている。夫 婦の情愛は結婚してから育むもので、これを恋だ愛だとのたまわっているうちはまだお互いが珍し いうちで、江戸の大人達はこれを恋だぁ、愛だぁ、とは云わず「絆」という。従って情愛は育まれ、 絆され生まれてくる代物である。
③三下り半
さて当時の庶民の結婚感は「元帰り」「呼び戻し」今で云う「出戻り」大歓迎、庶民の特に商人 達の経済的余裕が出来てきた為、嫁いだ娘の苦労を見ているのなら、いっそ別かれて帰って来いと 云う次第である。居心地良い実家は今も昔も変りない。で、小姑三千匹が一人また増える事になる。 また、「引越女房」なる者もいた。いつの間にか九尺二間の長屋の住いに入りこみ「引っつき合 い=同棲」を始める。そのまま居すわり結婚する場合もあるが一定期間を過ぎると他所に移動する 場合もある。当時の「人別帖」=戸籍調査が二年に一度であった為、この空白を利用して台帳に載る前に見切りをつけた女性達は移動した。江戸女大移動である。継ぐべき家名、財産がない為結婚 式は不用、やっても大家の部屋を借り持ち寄り的に三三九度して長屋の住民にお披露目をした。い つまでも嫁の来ない八つぁん、熊さんはその夜の宴会は当然大荒れとなった。
今でもそうだが女性の働き口は沢山あった。女中、飯炊、居酒屋から始まって、平次の恋女房お 静が働いていた水茶屋。他に射的場、湯女等、為に亭主の稼ぎ=所得は一緒に居る為の必須条件で はなく、優しい、料理が上手い、会話が面白く飽きさせない等、稼ぎプラス付加価値がある男性が もてた。 こうして妻からのサポートにも関らず「 四十過ぎての 道楽と 七ッ下りの 雨やまず」「 江戸っ子の 生まれ損ない 金をため」なんて好きな事をやっていると、「 医書にない 和薬板橋 妙に効き」と縁切り榎の粉末を飲まされる羽目になる。離婚は原則男の特権、離婚する為には嫁入り道具や持参金を返し「三下り半」を書いて女房に渡 す。三下り半とは今で云う「離婚証明書」である。
「 そのほうが事 我等勝手につきこの度離婚致し候 しかる上は向後何方へ 縁つき候とも 差し構えこれなく候」
と三行半で書いた離縁状、言い替えると女性に対する「再婚許可証」である。これがなく再婚する と重婚とみなされ、また三下り半をとられた男性は結婚不適格者としてみなされ、今後の再婚は難 しくなった。 知恵ある江戸の女性達は無用なトラブルを避ける為、結婚する前に少し危ない男から、危なくな くとも自分の自由度を確保する為に、あらかじめ男にそれを書かせ胸にしまい込んで嫁入りした。 「先渡し離縁状」は男が女にたたきつけるものではなく、女が自己防衛の為にもぎ取っておくべき ものであった。
男社会であった江戸時代、妻から離縁を請求できる場合は、①妻の財産を勝手に質に入れる、質 入れした金で鰹を食べる行為もこれにあたるのかは定かではないが、②夫が家出して一年、別居後 三~四年音信不通、③縁切り寺(上野国・滿徳寺、鎌倉・東慶寺)に入ってに入って三年間修行、 一生尼になる覚悟である事等が必要とされた。
「 去り状を とるうち年が 三つふえ」 「 出雲は合わせ 相模は引っぱなし」
しかしこれらを待っていては歳をとる、時間がかかる、次が待っている。そこで、①わざと家事をさぼる、浪費する。(別れるつもりがなくともこういう人は沢山いる) ②夫から貰った櫛や髪の毛を切って投げ返す、③代官所等に訴える、④縁切り寺に逃げこむ、等の 直接行為に及んだ。しかし、これらの行為も三下り半を書かせるまでには難しかった。縁切り寺も 江戸から十三里と遠い。逃げても途中で追手に連れ戻されたりしたが、門前の場合自分の櫛や草鞋 を門内に投げ込めば、駆け込んだものとみなされた。因みに東慶寺は秀頼の娘の天秀院が家康の許 しを得て入山、秀頼の正妻、秀忠娘の千姫・天樹院がこれをサポートしている。こう見てくると江戸時代、離婚の道は開かれている様に見えるがその道筋は険しいものであった。 しかし、太古の昔より女性は「したたか」であった。意にそぐわない結婚でもそれを利用した。男 は知略と力で天下を取るが、女はその男の力を利用して、本人が、はたまたその子孫達が天下を握 るべく策略する。信長の妹、お市が生んだ淀君は秀吉をして秀頼を産み、豊臣政権の存続を画策、 妹、江は秀忠を借りて浅井の血筋を残した。
離婚するには結婚する以上に根気と努力を必要とする。現代では協議離婚で綺麗に収まっている 様にみえるが、「不義密通」は武家社会では御法度、これも男社会江戸では男性に都合よく解釈さ れ、不義とは女性が人妻の場合で、男が既婚者で相手が未婚の場合は不問とされた。この問題の決 着は「七両二分」が相場。示談金を払い、現代にも通じる金銭的解決で丸く収めた。「貞女をば 餅がつくまで やっとたて」夫が死んでから四九日目に、牡丹餅を配るのがその頃の慣習、この餅を配った後は御本人の勝手、 現代では離婚届を提出してから、六ヶ月は再婚出来ない。前夫との妊娠の有無を確認する為である。
「 桃栗三年 後家半年 亭主の馬鹿めは ほぼ一生」
振り返らない女と後を追う男、今も「男と女の構図」は全く変わらない。
◇キーワード◇
「妻たちの 呼称」江戸時代、今で云う奥様達は同じ1人の女性ながら、身分によって呼び方が異なっ た。将軍家正妻は「御台所」御三家や御三卿正妻は「御簾中」それぞれの側室は男 子を産んだら「御方様」それ以外は家臣同様の待遇となる。大名家や旗本の妻たち は「奥様」「奥方様」御家人等下級武士の妻たちは「御新造」「内儀」庶民の妻たち は「女房」「おかみ」と呼ばれた。現在でも小体なお店にいくと生きのいいおかみ さんが店を切り盛りしている。
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