第12章 江戸歌舞伎を観る

今東西   いにしえより女性の好きな物として、「芝居、蒟蒻、芋、会話」と相場は決まってい た。現在では会話と云うよりおしゃべり的なものと旅行、グルメ、買い物が加わる。女性には一生 やりつくせない程の飽きない人生が待っている。さて、今回は今でも人気の高い「千両役者」が活 躍する「江戸歌舞伎」について掘り下げてみよう。

  慶長八年(一六〇八)出雲大社の巫女達が大社修復の浄財を集めるために   京の五条の橋詰で、 後に北野の社の東に舞台を設けてヤヤコ踊りや念仏踊りを踊った。この踊り手の中に「クニ」とい う娘がいた。この娘が歌舞伎の創始者とされている「出雲の阿国」だと考えられている。その後阿国は家康に招かれて江戸に入り、江戸城本丸、西丸の間にある   観世、金春の能舞台で 上覧に入れた。(創業記・当代記) 「かぶく」とは本来のものに反抗、反体制的思想、振る舞いをする事を指すが、男装の阿国は猿 若と云う者を連れ「かぶき踊り」を踊った。この性の倒錯が阿国の踊りの最大の魅力であった。時 代と共に「遊女歌舞伎」「若衆歌舞伎」と移行するがこれらは風紀を乱すものとして幕府より禁止 される。次いで、男性役者が女形を演じる「野郎歌舞伎」が誕生、見世物から演劇の道を歩き始め る。

①芝居町 

 江戸歌舞伎の始まりは寛永元年(一六二四)猿若(中村)勘三郎が   江戸中橋南地辺りにはじ めて幕府公認の官許の櫓をあげたのが始りとされる。この土地に猿若座をはじめ、人形操り座や浄 瑠璃座等で賑わっていたが、寛永九年御城に近いとの理由により禰宜町に移された。古今役者大全 には「禰宜町は是今の長谷川横丁の雪踏町といふ処なり」と記している。慶安四年(一六五一)様々な経緯を経て中村座は堺町に、市村座も葺屋町に櫓をあげ、芝居町 「二丁町」がたちあがる。この頃より建物の規模は間口八間、奥行十三間、桟敷一間は四尺四方と され(日本劇場史表)、当初はよしず張り、享保年間になって屋根を葺き、次いで三階建となる。芝居町とは別に木挽町五丁目にも、寛永十九年山村座が、万治三年森田座が櫓を揚げ三十間堀に 面し西向きに建っていた。(江戸名所図会)この様にして江戸四座となるが、正徳四年(一七一四)「江島生島事件」が発生。前将軍家宣御 台所天英院と家継生母の月光院との代理戦争だと云われるが、月光院派の大奥総取締江島が代参を 兼ねた芝居見物の帰り門限に遅れこれが発覚、大奥と表とが絡んだ事件となる。結果、山村座は廃 座、江島は信州高遠へ幽閉される。小彼岸桜が咲き乱れる高遠城の近くに淋しい余生を送った屋敷 がある。

  中村座、市村座、森田座の官許の「江戸三座」は天保一二年(一八四一)相次ぐ小屋からの出火 の為、取潰しの沙汰が出る。老中水野忠邦は太平の世になじみゆるんだ士風の刷新を計り、また 江戸市民の消費生活の贅沢を取り締まる為、超緊縮財政政策を推し進めた。「天保の改革」である。北町奉行遠山金四郎の調整により、浅草猿若町(暮踏町)へ一万一千五〇〇坪の替地を下げ渡され 移転する。「とんだこと 山が河原と なりました」  明治五年芝居の免許鑑札制が設けられ、劇場の数や場所の制限が撤廃、江戸三座の制度は消滅す る。守田座(森田座)は明治五年新富町(新島原跡)へ移転し興行「新富座」を名乗るが、明治 二二年歌舞伎座開業や震災による小屋の焼失により廃座。明治二六年中村座焼失、昭和七年市村座 焼失。

  江戸時代、歌舞伎は「能」と異なり身分の低い町人の見る娯楽ととらえられ、役者の社会的身分 も低く見られていた。明治二〇年、四月二六日から二九日の四日間、特別舞台を設け天覧劇を開催、 九代目団十郎、五代目菊五郎等により「勧進帖」「忠臣蔵」が上演された。これにより観賞にたえ うる演劇を社会に提示、役者の社会的地位も向上した。 昭和六一年、四国金毘羅歌舞伎公演、平成一二年、平成中村座興行、平成一七年、歌舞伎がユネ スコ「世界無形遺産」に登録され、平成一九年、団十郎、海老蔵等オペラ座で勧進帖公演等々、江 戸歌舞伎は世界で羽ばたいている。

➁歌舞伎の世界

  さて、大まかな歌舞伎の流れを掴んで頂いた後は、歌舞伎のあれこれをつまんでみると、観ていても理解度アップ、のめり込みさアップとくるから面白い。 「歌舞伎」は、「一声」「二振り」「三姿」だと云われる。声は台詞廻しである。例えば「ツラネ」 と云う言葉があるがこれは「荒事」等の主人公が花道で滔々と語る長い台詞、掛詞や物尽しを多用 したリズミカルな雄弁術がこれである。振りは身のこなし方、舞台を観て決まらない様は日常生活 でもそうだがひらける。姿とは顔、ツラ。現代ではマスクの良い、所謂イケメンの出番が多いが、 江戸の頃は顔は三番目、男の顔は子供の頃は親から貰ったもの、大人の顔は自分が造りだすものも のと相場が決まっている。女性は多少加工がきくが男は自前、故に男はつらい自己責任である。舞台照明のない、せいぜいあっても蝋燭の時代、「面明り」「面火」と呼ぶ長い柄の燭台で役者の 顔を照らした。だから三番目で良かったかも。因みに二枚目とは上方の芝居小屋で(江戸っ子は 「しばや」と呼ぶ)役者の看板を右から二枚目に花形役者を、三枚目に道化役をあげたのが由来と される。

  またこの役者名や芝居の看板を書く流儀に「勘亭流」がある。丸みがかった文字で内側に入る様、 しかもなるべく白地を残さない様書く。これは小屋の空席をなくす為のひとつの縁起担ぎである。 従って客は何を書いてあるか読めない。読めない文字を読み解くのも歌舞伎見物のひとつの楽しみ であった。 「櫓」も芝居を興行する権利の証といえる。幕府から許可された櫓を「御免櫓」と云う。この櫓 をあげる、控座に貸す、再興する、どれも江戸三座にとって大変な事であった。その興行主を「座 元」この座元の紋を大きく染め抜いた幕を櫓に揚げ、見物客もそれを目当てに集まった。また、その座のまとめ役は「座頭」座頭はその座の中心役者で名門からでる事が多かった。團十郎の名をも てば当然座頭となった。

  江戸の芝居は廓と共にその時代のファッションリーダーであった。新吉原の勝山が「勝山髷」の 発信元であった様に、役者が舞台で使った小道具、手拭、色柄等が贔屓や宣伝により巷で流行った。 「路考茶」は茶の色に黒を混ぜた渋い茶で、明和三年、二代目瀬川菊之丞が「八百屋お七」の舞台 で使った色、七代目團十郎が流行らせた柄が「かまわぬ」鎌、輪、ぬの三文字を柄にしたもの、も ともとこれは明暦から元禄にかけ、町奴が着ていた柄の様である。 「狂言」が決まり配役が決まるとその台本が印刷される。役者は演技の工夫に入り、衣装合わせ、 髷合わせ、小道具を決めていく。大道具も故実に基づいて制作にかかる。表方では観客動員の宣伝 に知恵をしぼり、役者一同は台詞の読み合わせ、立ち稽古、総ざらいから、本番並みの舞台稽古と 進んでいく。

  さあ本番、舞台は客席から観て右を「上手」左を「下手」正面舞台には、黒、柿色、萌黄色を中 心とした木綿製の「定式幕」がひかれている。「引き幕」の始まりは初代勘三郎が「安宅丸」の采 配踊りをした際、三代家光から褒美に貰った白い布を、中村座の幕に使用したのが始まりとされる。 江戸では布目を縦に、上方では横に使う。黒を中心に柿色と萌黄色を配す。中村座の白色は他の座 では遠慮して使わない。定式幕も官許の証として、中村座(控え都座)は右から黒、柿、白、市村 座(桐座)は黒、柿、萌黄、(現国立劇場)森田座(河原崎座)は萌黄、柿、黒(現歌舞伎座)の 配列を使用、引き幕の使用が許されなかった芝居小屋は「緞帖」を使用したが、現代では豪華な西陣織が使用されている。

③役者とひいき

  狂言の重要な進行役として「柝」が使われる。樫の木の柾目の部分をよく枯らして使うが、足ら ないと音が冴えないし、枯らしすぎても響きが不足する。大きく打つ「直し」を境に柝の性格が告 知用から舞台の効果音へ、楽屋用から舞台用に転換するから面白い。舞台から直角に揚幕まで客席を貫き、役者が登場、退場する舞台への道筋を「花道」と呼ぶ。贔 屓の役者の為に作り花を飾った事からこの名がついたとされるが、享保の頃は幅三尺余、長さ定ま りなし。また花道の近くに穴が作ってあり、役者はこの「せり出し」から登場もする。この穴を 「スッポン」と呼ぶのは亀が首を出す様な格好だからとか、せりあがった板がすっぽんとはまるか らだとも云う。花道の七三、舞台に近い処で初代團十郎は大きく目を開き「見得」をきった。「見 栄」とは有りもしない虚空の世界、こちらの見得は静止して決める絵画的ポーズ、「六法」が「動」 の極地と云うなら、こちらは「静」の極地、ストップモーションとクローズアップを同時に行う一 瞬ものである。舞台から見て小屋の最上階の奥を「大向こう」と呼ぶ。元々舞台から遠い席をこう呼んだ。「成 田屋、音羽屋、播磨屋」等の屋号をこの席に通ってここぞと云う場面で役者に掛け声を飛ばす常連 客も大向こうがらみ。自分の贔屓の役者が登場すると「待ってました」の掛け声、役者も心得たも ので「待っていたとは有難てぇ」とくる。贔屓と役者の息がぴたりと合う瞬間である。

  平成の家でも「お帰り」と云われれば待っててくれた様で心地よい。因みに「贔屓」とは式亭三 馬によると、江戸の芝居は贔屓によって成立していたと云う。贔屓がいればそれ程でもない役者が 上達し、さらに贔屓が増え益々大役者になるが、贔屓がないと上手い役者も出世が出来ず、田舎廻 りになるとしている。現代社会を江戸の頃から切っているとは流石、三馬するどい。 さて、よく「千両役者」と云うが、役者の給金は年俸制、毎年新しい顔ぶれを披露する「顔見世 興行」でその年の年俸が決まった。現在では名古屋御園座一〇月、東京歌舞伎座一一月、京都南座 一二月が顔見世興行。元禄七年初代團十郎の給金は五百両、二代目は千両以上の給金と御祝儀で あったが劇場側の経済的負担は年々厳しくなっていった。この為幕府から度々の勧告が出され、寛 政改革では役者の給金は上限五百両とされ、市川海老蔵三百両、松本幸四郎三八〇両、瀬川菊之丞、 沢村宗十郎等は五百両とされたが、これらの通達は余り守られなかった。

江戸純情派「チーム江戸」

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