江戸の野菜達

江戸の伝統野菜はその土地の気候風土に合い、古くから栽培されてきた野菜で、香り、えぐみ、 苦み、甘み、旨味と云った多様な味が、日本人の繊細な味覚を育て、江戸の食文化を守り育ててき た。

  和食の食文化がユネスコの無形文化遺産に登録され昭和四〇年代国の指定生産制度により、全国 に野菜の大産地が出来、規格通りの野菜が消費地に送られる様になる。一方、不揃いの江戸本来の 固定種、伝統野菜達は敬遠され、昭和六〇年代、それらの生産農家は激減していった。昭和二十か ら三十年代は家の周りに沢山の空き地があり、そこは何処も季節の野菜が育てられていた。出来る 物は曲がり胡瓜、凸凹トマト、粒が不揃いの茄子達であったが、皆みずみずしく輝りかがやき、そ の季節の香りがした。おのずと規格にそまらない個性のある子供達が原っぱで遊んでいた。三丁目 の夕陽を浴びて。平成に入り伝統野菜を守ろうと云う機運が京都の「京野菜」金沢の「加賀野菜」 といった古都で高まり、東京でも少し遅れて始まった。

お国の特産物

  三代家光の時代、参勤交代制度が確立。この制度諸国の大名達の財力をそぐ事を目的としたが、 五街道の整備にも繋がり後年江戸っ子の旅行ブームにも火がつくきっかけにもなった。疲弊された 大名達は何とか財政を立て直そうと国元特産品の開発、江戸の販売に力を入れた。各藩は国元の種 を江戸に持ち込み、蔵屋敷で栽培した一方、他藩との交流による種苗、栽培方法の交換が行われ全 国的に拡大していった。この民間版が幕末一大ブームをもたらした「お伊勢参り」である。全国か ら正体不明?の人達が田舎からの種、作物を神前に供える。それを交換の形で有難く頂いて国元へ 帰って植え育てる。幕府政策や施策がなくとも農業改革は自然と行われた。ただ持ちかえった品種が何でも順調に育つ訳ではない。その土地の気候、風土に合わなければ人間様 サマ が幾ら丹精、努力し ても同じ様には出来ない。故にその国の特産品となって高い付加価値を生み出し、藩の財政を潤し たのである。

  元禄時代の浅野の殿様も三州吉良の気候風土を熟知していれば、赤穂の様な良質の塩がとれる訳 がない。従ってある程度の製塩法を教えても「大丈夫だぁ」と結論が出た筈である。結果、残念な がらあの「忠臣蔵」の物語は生まれてこなかった。残念と云う意味はあくまでも後年、小説、歌舞 伎、画を楽しむ人々にとってはの範囲である。「ベジタブル   他所の国では   インポッシブル」で ある。 「江戸の人間は口で貰って尻で返す」と云う。魚河岸のゴミは、渋谷・目黒の農家が、「下肥」は 近郊農家が江戸へ野菜を売り、現金若しくは作物で払い回収した。金銭的取引で売買されるから、 下肥も立派な「金肥」である。エンゲル係数の高い家庭程高く回収して貰った。質素倹約の大店の ランクはどの辺りであったであろうか。

  江戸の町はその頃のロンドン・パリに比べると有数の環境衛生都市、上水道の設置、ごみ、下肥 の回収によりコレラ、ペスト等の経口伝染病の発症率はヨーロッパ各都市より格段に低かった。江 戸はそれだけ住みよい町であった。今の東京も住みやすいが、騒音と埃の町となっている。

  また、トータル的「幸福度」は世界の町々に比べかなり低い。物質的豊富さ、効率的便利さを追 う余り、別の大切さがないがしろにされている結果である。その結果を住んでいる人々が感じとっ ている評価がこれである。かって「やさしさだけでは生活できません」というCMがあった。そろそろ「物の豊さだけでも生活できません」のCMも流れないものか。


江戸純情派「チーム江戸」

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