②江戸の海
では、江戸前とは何処を指すのであろうか? 前章でも少し触れたが、江戸前の海の海域は時代 と共に拡大をしてきた。
①当初は江戸城のすぐ前、江戸湊とその地域を指し、隅田川河口から芝浦辺りである。三田村鳶 魚の見解によると「大川より西、御城より東。宝暦以来、江戸前という言葉は鰻の為に出来た様な もの」とされた。漁獲物は「カツラタイ」と呼ばれた真鯛、勿論将軍家に献上、他に石鰈、鱸、鱚、 穴子、鯵等である。②文政2年(1819)御肴役所へ提出した文書では西は品川洲崎一番棒杭、東は武州深川洲崎 松棒杭を結んだ半円形の海域、108㌔㎡、水深20m以浅の海で獲れる魚介類を江戸前の魚と称 した。③多くの辞書で採用し地理学者による海域は観音埼と富津を結ぶ線内。 ④2005年、水産庁は「江戸前を東京湾全体で獲れた新鮮な魚介類を指す」と定義、ここで いう東京湾とは三浦半島の剣埼と房総半島の洲崎を結ぶ線より内側のほぼ全域をいう。因みに観 音崎から富津迄の960㌔㎡、平均水深一五mの海域を「内湾」、それより先の420㌔㎡、 500m以上に達する谷もある、剱﨑灯台から洲崎灯台迄の海域を「外湾」と呼ぶ事がある。
歴史的背景から江戸の漁業を見てみる、①第一期、江戸初期から元禄年間にかけての漁業技術の 進んでいた関西方面からの移住による技術の導入期、佃島の漁民等大坂湾周辺からの漁民は主に江戸内湾の漁業に従事、また紀州周辺からの漁民は房総や相模沖等、外洋を漁場とする仕事に就いた。 ②第二期 元禄から寛政期にかけて技術の進化がみられ、それが定着していった。現在の沿岸漁業 法はこの時代のものが多いとされるが、人口の増加、食生活の多様化により海産物の消費が増大し た時期でもあった。③第三期 文化文政以降 現在日本を代表する食べ物、鮨、天麩羅、蕎麦、鰻 の蒲焼等の調理法が開発され、高級魚等も消費されていく。次に水深と云う角度から江戸前の海、東京湾を見てみよう。深度による水域は三つに分けられる。 ①水深5mまでの浅い水域や干潟、洲。現在の千葉、船橋、品川、羽田等の海岸線で生物生殖の心 臓部である。、あいなめ、はぜ、鯔、鱸、穴子等の幼魚が棲息する。現在では干潟の約90%まで が埋立られ生態系が崩れ始めている。②三浦半島等の磯。洲で育った幼魚が移動してきてここで成 長、鯛、かさご、めばる等が好んで棲息する。③湾中央部の「平場」と云われる海域5~10mの 砂泥に覆われ、底曳き網で海老、蟹、平目、鰈等が獲れる。
東京湾内の総海水量は約220億t、隅田川、多摩川等流水河川水量年間約100億t、多量の プランクトンの流入により江戸前の魚介は美味であった。しかし、この富栄養の河川の水は赤潮の 発生につながる。東京湾内の潮の流れは、太平洋の黒潮が北上、房総半島にぶつかり一部は湾内に 流入、左廻りに湾岸線を洗う。従って潮流が緩慢になる羽田、横浜沖で赤潮が発生しやすくなる。 昭和37年、東京湾の魚、貝、海苔等の水揚げは約15万t、単位面積当たりの漁獲量も群を抜 き世界一であった。しかし、相次ぐ干潟の埋立、瀬の干拓、水質汚濁等により最近では、海苔、貝類を中心に鯖、鱸、穴子、鰈等、約5万tと激減しており、海洋国日本の魚介類世界依存度も他品 種同様増加している。
0コメント