10章 飽食と飢え

 天明三年(一七八三)岩木山、浅間山が大爆発を起こす。火口から噴き出した噴煙は大空を覆い、 流れ出した溶岩は麓の村落を呑み込んでいった。日本近世史上では最大の飢饉といわれた「天明の 大飢饉」である。江戸時代は全期を通じて寒冷の時代であった。凶作や飢饉が絶えず発生、大小あわせると三五回 の飢饉にみまわれている。江戸飢饉とは江戸時代におきた長期にわたる冷害、干ばつ、水害等の異 常気象や昆虫等の異常発生、疾病、火山噴火等で凶作が連続して発生した事柄を指し、四大飢饉と 呼ばれたものだけでも寛永、享保、天明、天保の大飢饉が挙げられる。天明二年(一七八二)から八年(一七八八)に及んだ天明の大飢饉は当初から悪天候による冷害 に加え、岩木山や浅間山の連続大噴火による日射量、日照不足により農作物は壊滅的な打撃をうけ、 疫病がまん延した。 田や畑を捨てた農民たちは都市部へ流入、米屋を打ち壊す等治安の悪化をまねき、残された者た ちは来春植えるべき種米を食べ、食べられる物は全て食べ尽くし餓死していった。特に被害の大き かった弘前藩では一冬八万、南部藩や支藩の八戸藩では人口の三割から五割の人口の減少をみた。 諸藩では失政からくる改易をおそれ、被害実数を過少申告、為に、実数は更に甚大であると推定される。

  江戸中期の日本の人口統計を見てみると、安永九年(一七八〇)二六〇一万人であった人口が天 明の大飢饉さなかの天明六年(一七八六)には約一〇〇万人減の二五〇九万人に激減、更に寛政四 年(一七九二)二四八九万人まで減少、寛政一〇年になって二五四七万人とやっと持ち直している。 一〇〇万単位で人口が減少する飢饉の恐ろしさが数字の上からも伺われる。かたや同じ東北諸藩である米沢藩や白河藩では備荒貯蓄制度より、また越後、酒田、江戸、大坂 等の藩外から積極的に米や雑穀を買い集め、これらの災害に対し施策を講じている。 本来、熱帯植物である米に対して、何らの栽培技術や品質改良を伴わない年貢の増収だけを目的 とした、いきすぎた米作奨励政策がこの被害を増大させた。一連の飢饉は自然災害であると同時に はっきりとした人災であった。同じような自然災害と人災が絡んだ事件がヨーロッパでも発生した。一七八三年アイスランド火 山群が大噴火を起こし、北半球に冷害とエルニーニョ現象をもたらした。為にパンを主食とする 人々は小麦の凶作により深刻な食糧不足に陥った。「パンがなければケーキを食べればいい」第三 階級をないがしろにしたこの暴言とブルボン王朝の圧政により一七八九年バスティユ襲撃に始まる フランス革命がおきる。この革命はアメリカ独立戦争とともに民主国家の誕生の契機となる。

  さて現代は「飽食の時代」であると云われる。日本国でまだ食べられる食糧を食品スーパー、コ ンビニ、外食店等の企業から売れ残りとして処分される食糧は、年間約三三〇t。家庭から食べ残 しとして、年間約三一〇t、合わせ六四〇t。飢えに苦しむ国々への必要援助食糧が約四〇〇t、その約一・六倍の食糧が廃棄されている。世界人口約七〇億、その九人に一人の約八億の人々が「飢え」に苦しんでいる。二〇五〇年世界 人口は九〇億人を超す見込みだと云う。結果、深刻な食糧不足に陥り、約一〇億の人々が飢えに苦 しむ。これは、飢えだけに止まらず、廃棄の結果、汚染、腐敗によるメタンガスの発生による地球 の温暖化、食糧製造過程のエネルギー、素材の無駄   等の問題も抱えている。   飢えに苦しむ人々を増やさない、いや飢えを根絶する根本的対策を国を越えて、特に廃棄の多い 先進国が真剣になって考えていかない限り、地球そのものが危ない時期にさしかかっている。(数 字は二〇一五年代の統計参照)

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