ヌ 煙草
江戸の料理を紹介してきたが、そろそろコーヒーブレイク。チョイ前迄は珈琲を飲んで煙草に火 をつける。喫茶店は紫煙で向こうが霞んでいた。今は違う。吸う人間は奥の小部屋、広い明るいス ペースは吸わない人の為の席である。いい時代になった。このマナーだけは。「今日も元気だ 煙 草がうまい」のCMは遠い昔のものとなった。
煙草は南米を原産地とする植物、一四九二年コロンブスが新大陸を発見した際、原住民の喫煙習 慣を見て、それから世界中に拡まったと云われる。日本では元亀、天正の戦国末期頃からと諸説あ るが、江戸は寛永期 花は霧島,煙草は国分と唄われる様に栽培が全国的になり、喫煙者も急激に 伸びていった。遊女の他は好ましからぬ時代から、享保の時代になると女性の喫煙もさほど珍しく なり、その後はさらに一般的になった。現代と同じである。若い男性の喫煙はさほど見かけられなくなったが、吸える場所では女性の姿が目立つ。中には歩き煙草のお姐さんもいる。折角のおしゃ れが台無しであるから辞めた方がいい。
江戸の頃の煙草と云えばきざみ煙草。そいつを指で摘まんで煙管の雁首に詰め込む。詰め込んだ 煙草を煙草盆の炭火に点けながら吸う。現代の様にライターはないから手間がかかった。一服、二 服すると煙草は燃え尽きるから、その煙草盆の受け皿、大体が竹の筒に灰をポンとたたきフッと煙 を出す。この動作をまた繰り返す。匠の名人は手のひらに燃えカスを受け、熱いからそれをころが しながら、もう片方の手で雁首に煙草を詰め、手のひらにある種火で火をつけ一服する。右脳と左 脳を同時に使う。これが出来なきゃ煙草をやめた方がいい。
一昔前、乗車区間の中間代金を支払わないで改札を出る事をキセルと云った。キセルは煙管と書 く、雁首と吸い口を結ぶ管を羅宇(らお)と呼ぶが、(ラオス等の竹を意味)つまりこの羅宇の部 分を払わない行為をキセルすると呼んだ。パスモ、スイカの時代、この芸当は無理である。
◇キーワード ◇
押送舟
おしおくり、おしょくりぶねと読む。江戸、大坂等の大都市へ生魚を搬送した槽帆 両用の快速の小型荷船。数人で櫓をこいで魚類を市場へ運ぶ早舟。全長 38 尺5寸、 巾8尺2寸、深さ3尺、3本の着脱式のマストと7本の櫓(1813年の資料)を もった和舟。葛飾北斎作「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」に大浪に呑まれるかの押送 舟が見事なコントラストで描かれている。また、嘉永6年のペリー来航時にも浦賀 奉行所に警備船として配備され、ここでも活躍していた。
質草
月4分の利息と8ヶ月の期限が相場、「殺された奴は8月目に化けてでる」この時代、 質に入れる事を「殺す」ともいった。到底、女房殿を質に入れる訳にはいかない。
鰹節
鰹の肉を加熱してから乾燥させた日本の保存食品。701年大宝律令により干鰹等 が献納品として指定されている。伝統的製法の一例として生切り、釜立て、骨抜き (この段階で生利)、焙乾、天日干しからカビ付けとなる。このカビによって身の蛋 白質が分解され旨味成分のイノシン酸やビタミン類が生成される。
酒盗
鰹、鮪、鮭等魚の内臓を加熱する事なく塩付けにし、素材そのものの酵素や微生物 によって発酵させたもの。土佐藩 12 代豊資が土佐清水でこれを肴にすると酒量が増 すという処から、酒を盗んでも食べたくなると名付けたといわれる。もともとは生 利品を製造する際に出る内臓を漁師や加工業者が塩辛にして食べていたものが始ま りとされる。
屋台文化
江戸初期、武士も庶民も外食する習慣はなく、町には飲食店はなかった。明暦大火 以降、復旧作業の職人、労働者を対象に魚、野菜の煮物に酒をプラスした「煮物 屋」ができた。広小路、火徐け地の設置により、そこに可動式の床店、茶店ができ 独身男性のニーズに合った蕎麦、天麩羅、鰻蒲焼、握り鮨等の屋台文化が発展して いく。因みに第1号店は芋、栗等を米と一緒にお茶で煮込んだ雑炊を売る浅草浅草 寺そばの「奈良茶漬飯」
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