ト 鰻の蒲焼

「二本差しが怖くて蒲焼が喰えるかい、気のきいた鰻は三本は差してらぁ」 「江戸前」という言葉が生まれるルーツとなり、江戸っ子の大好物鰻の話である。

  江戸と関西で同じ素材を使っていながら、レシピが違う商品に鰻の蒲焼がある。鰻と云えば土用 の丑の日。何故、鰻が丑の日に結びついたのか?   諸説ある。万葉の時代、歌人大伴家持が送った 歌に「石麿にわれ物申す夏やせに良しといふ物そむなぎとり食せ」と親切に健康を気遣っている。

  江戸になり平賀源内や蜀山人が考えだした説、和泉橋の袂にある鰻屋が籐堂家に出前をする事に なり、子、丑、寅と三日に分けて出前した処、丑の日が一番旨かった、と云う事で鰻は丑の日に限 るとなった、なんか目黒の秋刀魚に似ている。いずれも高温多湿の日本の夏を乗り切るには鰻を食 べなさい   と云うお話である。鰻は卵から成長まで五~六年、成長した鰻は川を下り深海で産卵、 生まれた稚魚は再び川を遡上成魚となる。

  鰻職人は「割き三年、串八年、焼き一生」と云われる。専用の鰻包丁で目打ちをして関東は背開 き、関西は腹開きとなる。江戸では武士社会である為腹開きは嫌うが、料理学的には、腹開きだと 真ん中が高くなるので、折角の栄養が炭火の中に落ちてしまう。この為、真中が凹む背開きの方が 合理的だとの説がある。串の素材は房総安房の雌竹を使う。

  関東平野の河川は広く穏やか、人間が親指と人指し指を丸めた太さが良いとされるがここに棲息 する鰻は流れのせいで少々脂がのって泥臭い、為に関東では一度蒸して脂、臭いを落とす。最初背 中から、次腹、焦がさず脂を焼いて仕上げる。

  パタパタ団扇であおぐのは滿編なく焼く為の道具であり、客に臭いを嗅がせて呼び込む為ではな い。本音はその辺りも考えられるが最近では店頭で焼いている店も少なくなった、ましてや御飯を 店頭に持って行ってその臭いで御飯を食べる匠の技も出来なくなった。

  うな丼はうな重に比べ庶民的感覚からみれば値段も安いし、丼で食べやすいと思うが、そもそも うな丼の元祖は江戸的には中村座、市村座が櫓をあげていた芝居町の葺屋町に座主久保今助さんが いた。この方滅法な鰻好き、毎日近所の大野屋から鰻と御飯を出前させていたが、忙しい時はすぐ 食べれない。冷たくなって不味くなる。今助さん考えた。ではでは鰻を御飯の間に挟めばよかろう、 御飯の温かみで鰻も冷めない、タレと御飯が適当にまぶせる、しかもかっ込み易い。一考三得って 寸法で、結果江戸っ子の評判となり大野屋はうな丼の元祖となり繁盛した。初めは六十四文、後に は百文、二百文の高級品となった。

  続いて「うなぎ江戸小咄」をひとつ。   若い二人が鰻屋の奥座敷に席を取り、熱燗を注文し話を始めた。こういう場面はすぐ察しがつく。 男が女を口説き(江戸では口 くぜつ 説という)にかかるのである。店の親父も心得たもので、先ず一服を してから小名木川万年橋の下に仕掛けておいたびくを上げに行く。 「若いしどうせ食べてる処じゃねぇだろう」と小振りなものにして帰ってきてまた一服。これまた、 ゆっくりと捌いてまた一服、焼きながらも奥の様子をチラチラ。眺めては焼き、焼いては眺め、こ れ以上焼くと限界だって手前で「おいそろそろおちたかよ」カミさん「まだだよお前さん、まだ世 間話しているよ」「何やってんだよあの馬鹿、鰻が灰になってしまうわ」「ええぃもう、じゃぁ俺が代わりに口説いてくるわ」。ここにも気の短けぇお節介やきの江戸っ子がいた。

江戸純情派「チーム江戸」

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