「平成おくのほそ道一人旅」⑤松島~奥州平泉
芭蕉と曾良は5月9日(6/25〉塩竃神社参拝、その湊から海上2里手漕で松嶋に渡っている。さて、平成の旅人は東北本線国府多賀城駅からひとつ先の塩釜で下車、ここも緩い坂道を歩くこと15分、表参道鳥居が見えてくる。鳥居から楼門まで202段の急階段は、江戸愛宕山の男坂さながら、中ほどに踊り場があるが決して後ろは振り返えられない。しかも踊り場からは足ひとつ長さの石段奥行、周りの景色を眺めるなどとんでもないの急勾配を登ると社殿、先ずは今更ながら道中の無事を祈願、塩釜港を一望、帰りは右手のなだらかな階段を今度は景色を楽しみながら、「仙石線」本塩釜駅迄約10分。途中道を聞いた若い地元の娘さん、(道を尋ねる時はなるべく)、彼女は親切に教えてくれた上に「お気をつけて」の一言。やっぱ みちのくの方はあったかい。
JR松島海岸駅は本塩釜より三つ目。お盆最中とあって駅から海岸通りまで、日本人から国籍の解らない外人さんまでの行列が続く。暑さと人息で松島の松も可哀想な事である。松島の半日モデルコースは、駅から歩いて7分の「瑞巌寺」〜2分「円通院」〜5分五大堂、この傍の海岸から島を巡る観光船が発着している。平成の旅人は景色と人間を交互に見ながら、次は「東北本線」の松島駅にむかう。多少歩くが「仙石線」の海岸駅から仙台に戻り「東北本線」に乗り換えるより、ずっと時間及び距離の短縮になる為である。このあたりは18きっぷの裏技とかっこつけたい処であるが、実はJR東日本の駅員さんのアドバイス、ここにもあったかいみちのく人がいた。
小牛田と書いて「こごた」と読む。ここからさらに一関、平泉と乗り換えて行く。一の関は「前九年の役」(1051〜62)の折、安部氏が防備の為、三っつの関をおいたが、ここはそのまま地名になった。奥州平泉は11世紀末、初代藤原清衡が江刺から平泉に本拠地を移転。「前九年の役」で父を、「後三年の役」で妻子を亡くした清衡は、平和な国土を築くため多くの伽藍を造営、2代基衡も「毛越寺」を建立。3代秀衡の時代に最盛期をむかえる。北は津軽半島の外ヶ浜から南は白河の関までを統一、人 口は5万とも10万とも擁したと伝わる。藤原3代の栄華を可能にしたのは安部氏、清原氏の北上川中流地域「奥六郷」の平定を受けついだ事によるもので、政治力、軍事力、みちのくの金がこの領土が支える事になる。
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