「平成おくのほそ道一人旅」 ④遊行柳~白河の関
日光を後にした芭蕉と曾良は、黒羽から芭蕉の禅の師である仏頂和尚ゆかりの古刹「雲巌寺」を参拝、那須温泉神社に那須与一をしのび「野を横に 馬曳き向けよ ほととぎす」と詠んだ後、殺生石をまわり、深川を出立して23日目、芦野(那須町)遊行柳にて「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」かな」の名句を残して白河に向かっている。「白河の関」へは東北本線JR白河若しくは新白河からバス40分程。しかもこのバス土日祭日の運行は午前1便、午後1便と云う働き者、上野より午前便に乗ろうとすると、始発に乗ってもおっつかない冷たいバス、 このつれないバスに人間様が合わせるべく午後便に合わせて出発。しかし関跡だけではいかにもシャクな為、「寛政の改革」を推し進めた松平定信の居城見学と、御当地自慢の白河ラーメンを食べる時間はしっかと確保して、5枚目の18きっぷを使っていざ出発。
「白河の関」は太平洋側の「勿来の関」(蝦夷よ来る勿れ)日本海側の「念珠の関」と共に奥州三関のひとつで、奥州道中の要衝。5th頃設けられたが、奥州が平定され律令制度がくずれるにつれ、平安中期以降は廃止。芭蕉は「心許なき日かづ重るまゝに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記し蝦夷との国境の関を越えるについて、やっとこの旅の覚悟を決 め、東北における出発点としている。芭蕉がこの関を通過した元禄年間(1688〜1704)には関跡は判然としておらず、寛政12年藩主松平定信によって関跡と判定され、碑が建立されている。因みに蝦夷とは、古代には「エミシ」呼ばれ、一般的に東北の辺境にいる乱暴で中央に従わない人々を指し、平安中頃以降は「アイヌ」をさした。また、この白河は宇都宮で分かれた奥州道中の最終地。日本橋から27宿、道中奉行の管轄。しかし一般には仙台道、松前道(勘定奉行や諸藩の管理)の総称として奥州道中が呼ばれることが多い。奥州道中が初めて海をみるのは三戸、五戸、七戸を過ぎて野辺地に出る処陸奥湾である。その湾に沿ってさらに竜飛岬の先端が三厩、津軽海峡雪景色を渡れば蝦夷地松前。明治6年、陸羽街道と改称され、現在はほとんどが国道4号線。「都をば霞とともにたちしかど 秋風の吹く白河の関」 能因法師。古代より沢山の歌人が白河の関を歌枕として詠んでいるが、芭蕉はここでは詠まずに関跡を通過している。
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