「平成おくのほそ道一人旅」③千住~日光

 芭蕉ゆかりの深川界隈を7月チャリで巡ったレポートに続き、その数日後人形町から日比谷線に乗り、北千住に向かい 「矢立初の句碑」 をさがす。旧日光街道は北千住駅を中央に左右に分かれ、千住大橋は左側をゆく。上り線、下り線が仲良く二橋並んでいる。 隅田川を北へ舵をとった芭蕉は、千住大橋で舟を降り「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」を詠む。ここ千住大橋は家康が軍事的目的から、隅田川にこの橋だけを架けさせたが、明暦の大火を契機に、大橋(両国橋)が創架されている。また千住宿は日光街道、奥州街道の初の宿場として、品川、内藤新宿、板橋と共に、江戸四宿として盛えた。松並木が残る、旧日光街道沿いの草加は煎餅の町。煎餅の起源は、おせんさんと呼ばれた茶屋の娘が売れ 残りの団子を潰して、平にし焼き上げた物、つまりおせんの餅が、煎餅の始りだと云われる。

 芭蕉一行が日光を訪れたのは旧4月1日から5月9日、 室の八嶋から日光例幣使街道を歩いて日光に向かっている。日光街道二十一宿を創案したのは家康であるが、歴代将軍は東照宮に参詣する場合、常磐橋から本郷追分で、日光御成道を取る場合が多かった。小山宿からも日光街道だけでなく、壬生道、例幣使街道も併せて用いられており、日光街道は東照宮の参詣道目的に造られたと云うより本来の「みちのく」への物流路線として企画されたものと考えられる。「日光東証宮」は、元和2年(1616)家康死去、遺言に より久能山東照宮に埋葬、翌3年下野国日光に改葬し秀忠創建。現在のほとんどが国宝、重文の建築物は三代家光が造営、平成11年世界遺産に登録されている。「あらたふと 青葉若葉の 日の光」

  平成の旅人の日光詣では、幼き頃の修学旅行を入れると数回目、勿論18きっぷを使って、山形からの帰り途に寄った。夕刻頃JR日光駅下車 東武駅前から緩い鉢石の参道を神橋迄約20分、因みに大谷川に架かる神橋、日光開山の祖、勝道上人がこの川を渡れずに難儀をしていた処、二匹の大蛇が橋となったと云う伝説をもつ別名「山管の蛇橋」と呼ばれる。             我が家の身の幸せを願って、鳥居の外より遥拝、 帰りは大谷川沿いのハイキング道を軽やかに闊歩、秋の紅葉の季節は「よかんべぇなぁ」と思いつつJR駅へ。(つづく) 



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