ハ 酒問屋・新川
江戸湊に入津した酒荷は元禄十年には六四万樽、享保年間平均二〇万樽、明和から安永の時代になると飛躍的に増加、天明二年、約九七万樽(江戸会誌)灘酒沿革誌によれば約百五万四千樽と 百万の大台を超えている。一方「地廻り酒」は下り酒の約一割の十万樽、中川と橋場で厳重な検査 を受けて入津した。入津いずれも新川問屋経由の数字で、武家の蔵屋敷に直接入る数字は含まれて いない。江戸の町人人口約五〇万、飲酒可能な年齢層約三五万人と仮定すると、地廻り品を入れて 約百万樽入荷として、三六〇万斗÷三五万人=年間一人消費量は約十斗。これを一年三六五日で割 ると毎日約二・八合飲む事になる。江戸への旅人も多かったからこの数字は低くなるが江戸っ子は よく飲んだ。一日三合以上毎日飲むと現代ではアル中と診断される。
酒の値段は江戸インフレ社会のなか、時代が下るにつれ高騰、享保年間極上酒二〇樽九両であっ たものが、天保十三年になると二二両二分、安政大地震後の安政二年には三〇両に跳ね上がってい る。因みに酒問屋の口銭は売り上げ金の三分である。
下り酒問屋三七軒のうちの約七割が新川筋にあった。亀島川から分流、一の橋、二の橋、三の橋 を潜って大川に繋がっていた新川は万治二年(一六五九)、河村瑞賢が開削、長さ約五九〇m、巾 約一一~一五m、下り物と地廻り品の河岸地として栄え、北岸は下り酒の問屋、南岸は地廻り品の 問屋が軒を並べ、ここから神田鎌倉橋河岸の豊嶋屋等の升酒屋に卸された。酒一合二〇文、ゆで蛸、 芋の煮っ転がし等のあては八文、生で呑ませるのは蕎麦屋、料亭等では割った。割っても下り酒は 旨った。旨い酒が江戸になかった訳ではない。江戸の銘酒として、浅草の駒形の「宮戸川」 新和 泉町の「滝水」 吾妻橋東詰、細川家下屋敷の井戸水を使ったと云われる「隅田川諸白」があった。 「諸白」とは精米した白米を麹と蒸米で醸造したもの、「片白」とは白米と黒麹を使った濁り酒である。江戸も現代も飲む事 即ち人生の楽しみ、喜びである。
川舟は よい茶よい酒 よい月夜 <芭蕉>
新川は 上戸の建てた 蔵ばかり
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