ロ 踊る灘の酒

京伏見や灘六郷で醸造された新酒は「下り酒」となって地方へ運ばれる。

  当初は馬一頭に四斗樽を二樽振り分け、それを一駄として馬一〇数頭をひきつれて江戸に下った。 これを始めたのが尼子の家来、山中鹿之介の子孫であると云われる。馬一〇頭、二〇樽に対し馬方 一人、高瀬船は五百~六百樽で舟子四人、大型船は八百~九百樽積載で舟子六人。労働効率の良い 船便に移行するのは当然の成り行きであった。

  享保年間、灘一三七家、伊丹五四家、池田二六家や伏見の造り酒屋の他に、尾張、三河の「中国 物」、その他「下品」と呼ばれた関東の地廻り悪酒があった。

  灘の酒に人気がある訳は   ①先ず水である。六甲山地をくぐりぬけてきた西宮の水を使う   ②山 田錦等摂州、播州、泉州でとれた普通米より粒の大きい米を磨きに磨く   ③蒸した醪を一気に冷や す寒風、冷蔵庫のない時代この作業が酒の良しあしを決めた。今でも古い酒造蔵を覗くと北側の壁 に「六甲下ろし」を吹き入れる大きな窓がある。④最後に酒に命を吹き込み、保存する樽が不可欠 だ。吉野川流域に生える吉野杉で酒樽は作られる。

  杉、檜等、針葉樹の心材は「あかみ」辺材を「しらた」と云う。このあかみの部分に広葉樹には ほとんどない木の香が、含まれている。「フイトンテット」と呼ばれる精油である。この香りは五 年ほど消えない。つまり、あかみの部分を内側に、しらたの部分を外側にして樽を作る。全部あかみであると見栄えが悪いから菰を被せる。これが御祝用の「菰かぶり」となる。日本酒に杉樽を使 用するのは香りと防腐作用があるからである。

  西宮等関西の湊から積まれた四斗樽は先ず紀伊半島沿いに南下、突端熊野灘潮岬を廻る。ここは トルコの大型船も遭難した程の海の難所、次いで遠州灘御前﨑、ここ辺りも波が荒い。樽には実質 三、六斗の酒が入っている。ウヰスキーは「天使の分け前」がある。よって蒸発、減量するが日本 酒は最初から人間が減量、樽に空間をつくる。この空間が物を云う。荒波にもまれた酒はその空間 を利用して踊る。「踊る日本酒」である。踊らされた酒は杉のあかみの板と接触、新酒本来の香り と杉の香りがブレンド、一一月頃、江戸湊新川に着く。

  関西からの樽廻船は左舷に富士山を見ながら江戸湊に着く。着く頃は充分にブレンドされたふく よかな芳醇たる新酒となって江戸っ子の喉を唸らせた。これを富士山を左に眺めて入津する為「富 士見酒」と呼ぶ。醸造元の関西の人間はこれでは不満である。「何故消費するだけの江戸の奴らが 我々よりも旨い酒を飲むのか?」当然の疑問である。そこで考えた。じゃあ船を仕立てて富士山ま で行って帰ってくればいいのではないか。問題解決である。これを富士山を左、右と二回眺める酒 である為「二望酒」と呼ぶ。江戸時代の人々はマメであった。特に旨い物を食べる事に関してはマ メであった。

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