②千石船と地場産業

「天下の貨七分は 浪華にあり  浪華の貨七分は  船中にあり」

  七分×七分   四割九分   日本全国GNPのほぼ半分をこの航路で稼ぎだしていた。垣立を菱形に 組み立てた「菱垣廻船」は元和五年(一六一九)木綿、油、酒、醤油等を堺の船問屋が紀州富田 浦の船を賃借して江戸へ輸送したのが始まりとされ、定期便が開始される。元禄六年(一六九三) 十組問屋が結成され、この頃から主に酒や日用品を輸送した「樽廻船」が運行され。享保十五年 (一七三〇)十組問屋から酒問屋が抜け独自に運行を開始、敏速なるが故に次第に菱垣廻船は圧倒 されてゆく。樽廻船は灘や伊丹、池田等の下り酒を大坂、西宮から出航、十九世紀以降は千五百石 積みが中心、積載能力千石積で千六百~二千樽(四斗樽)、江戸湊と全国の産物が益々近くなって いった。

 幕府は「島原の乱」以降鎖国政策をとり大型船の建造を認めなかったが、商船に限り千石以上 の建造を認めた。木綿、紙類を積載した「菱垣廻船」、船底が深く小型で速度を重視した為「小早」 と呼ばれ酒、油等を積載した「樽廻船」、ともに弁財型の船で当初の五百石積は櫓と風力を併用し ていたが、船長二三~二七mある千石積と大型化するにつれ二〇人程の水主(かこ)で操縦、水押 (みよし)と呼ばれた水切れのいい船首材料を使用大きな帆を上げた帆走専用となり二千石船も造 られた。樽廻船は、船賃が安い、船足が速い等の理由で文化五年(一八〇八)頃から圧倒的に増加、 天保六年(一八五三)延べ保有隻数九四〇艘に達し、初期の頃は江戸、大坂間を約一ヶ月要したが、中期になると半月、安政六年(一八五九)一〇月一五日には五一時間の記録を残している。これは、 帆布をメッシュの密な木綿布や二重に改良したり、正面六〇度の風なら前進出来る、これを「間切 る」と云うが   この様な技術革新イノベーションの結果である。   江戸も中期になると幕府の振興策が興じ地場産業、地廻り経済が発展していく。小名木川からの 行徳の塩、結城・青梅・岩槻等の北関東を中心とした綿織物(太物)、関宿からの瀬替えによる銚 子・野田からの醤油等がその代表である。こうした地場産業の発展に併せ「十組問屋」の結成等商 業形態の充実により、江戸の経済は発展していった。 明治に入り鉄道の開通により、流通手段が水運から陸運に移行、蔵屋敷が倉庫になり江戸経済を 支えた水上交通は次第に衰退していく事になる。

◇キーワード◇

「鯖街道」 古代大陸の玄関口であった若狭から、大陸や朝鮮の文化が峠を越えて京や奈良に 伝えられた重要な道である。若狭国小浜藩領内(福井県南西部)で獲れた海産物等 を運ぶ為に使われた若狭街道の名称。特に鯖が多かった事から近年になって鯖街道 と呼ばれる様になる。生鯖を塩で〆て行商人に担がれ丸1日を要し丁度いい塩加減 となって京に運ばれた。京都市左京区出町橋に「鯖街道口従是洛中」の石碑がある。 経路はいくつかあり最も多いルートは小浜から熊川町(現若狭町)へ、朽木村(現 高島市)とJR湖西線のルートを通り、京出町柳に至る若狭街道。他に今津から琵 琶湖の水運を利用して大津から京へ入るルートもあった。

「海の 東海道」江戸初期幕府によって諸街道が整備された折、五街道の筆頭は陸の「東街道」では なく海の「東海道」(南海路)であった。消費地江戸と商業地大坂を菱垣廻船、樽 廻船で結ぶ海のゴールデンルートであった。因みに江戸初期までの航法は地上の目 標物を見ながらの「地乗り航法」であったが、後期になると海図や磁石、夜間は星座 を観測しながらの「沖乗り航法」へと進化していく。


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