第7章 下り物と下らぬ物 ①消費都市江戸
江戸っ子を自認する古希を迎えたおじさん達は、自分の価値観に合わない物や行動を「くだら ねぇ」の一声で一蹴、その事柄に関しては取り合わない。現代の若者達はやたらと、「そだね」と 物事にあわせ流すきらいがあると思うが如何であろうか。どちらが体にいいか、どちらが生活しや すいかはそれはそれでさておき、暗黒の一〇〇年と云われた江戸に家康が入る迄は、武蔵野台地が 広がり限りない葭と葦の湿地帯、水辺に建ち並ぶ寒村、江戸はそれだけの町であった。徳川家の普 請から「関ヶ原の戦い」に勝利、慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開くにつれ、江戸は一躍政権 都市に躍進、そこへ ①全国から臣従した大名達とその家来達、②消費するだけの武家集団をあて こんだ伊勢、近江等の関西系商人達、③城や街を造る労働者達、④それらの人間を相手に商売する 江戸一旗組、等々江戸は必然的に人口増加、開発途上の大都市へと膨らんでいった。人口の急激な増加、地場産業の未発達により「地産地消」の形態をとれなかった江戸は米等の食 料品に関わらず、衣類等の消耗品や嗜好品にいたるまで産業先進地域であった上方にその需要を求 めた。その頃江戸で賄えた地廻り品は、水、魚介類、野菜や果実、行徳の塩、薪と炭等 自然的採 取による物ばかりであった。京からは絹織物、呉服、天下の台所大坂からは農産物、海産物に金属製品、灘、池田、伊丹等か らは「下り酒」、瀬戸内沿岸の赤穂、竹原からは上質の塩が関西の湊から「菱垣廻船」「樽廻船」に 積まれて本願寺の大伽藍、越前堀の大松、鉄砲洲神社の富士塚を目印に江戸湊に入津した。
江戸経済の根幹をなしていたのは「米」、その分布、物質の性質上移動については船以外に選択 肢はなかった。幕府は五街道の整備と共に全国各都市を廻船で結ぶ海運網を作り上げていく。①酒田を中心とした東北日本海側から北上、津軽海峡を横断、三陸沖から南下房総沖を廻って江 戸湊に着く「東廻り航路」冬期の房総沖は強烈な西風の為、下田か三崎に一旦立ち寄り凪るのを 待って江戸湊を目指した。 ②室町時代頃は東北、北陸の産物は敦賀、小浜辺りから琵琶湖に出て湖を渡って大津、京に入っ た。琵琶湖西岸JR湖西線辺りが「鯖街道」の名残りである。江戸時代に入り酒田から日本海を南 下、関門海峡から瀬戸内に入り大坂を目指す「西廻り航路」が開発された。この海域は太平洋側の 波に比べ穏やかであり、特に夏場はべた凪、航海も安全であった。両航路共河村瑞賢が開発したも のである。また現在でも東海道新幹線や東名、阪神高速道路は東海ベルト地帯をつなぐ大幹線であ り一番の稼ぎ頭であるが、江戸の頃においても消費都市江戸と商業都市大坂を結ぶ陸の東海道、海 の東海道「南海路」は江戸の消費と大坂の商いの大半を賄った。
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