ハ 河岸

享保一一年(一七二六)江戸湊に入津(にゅうしん)した船舶は七四二四艘、問屋を通さず武 家の蔵屋敷に搬送された数は含まれていない。物資の内訳をみると、米約八六万俵、酒約八〇万 樽、醤 しょうゆ 油約一三万樽、これらの物資がそれぞれの舟付場=河岸に運ばれていった。因みに将軍家の それは「御上り場」、大名、旗本は「物揚場」とよばれた。これらの河岸地は「日本堤」、「隅田堤」 と呼ばれた逆八の字を描いたロート状の堤によって、隅田川の氾濫から守られた。為に江戸時代水 面から河岸地、問屋とほぼ平面移動で物資は搬送されたが、クレーン等の重機による立体移動を余 儀なくされる様になるのは、地盤沈下による護岸工事(カミソリ堤防)以降である。自然の堤から 護岸堤防、それを元に戻す「スーパー堤防」と限りなく行政の無駄が繰り返されている。

  江戸湊が東京港となり貿易港としてデビューするのは昭和一六年、安政五年(一八五八)修好通 商条約による横浜、神戸、長崎、新潟、函館等の開港から立ち遅れ、高雄、上海と並ぶ東アジア最 大のハブ港、韓国釜山からも大きく水を空けられている。

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