ロ 舟入堀

慶長一八年(一六一四)、江戸城建設の為の埠頭を必要としたが、当時の土木技術では、陸地か ら海に棒状に埠頭を突き出した形で造る事が不可能であった為発想を転換、陸地側に掘割を造った のが十本の舟入堀である。同じ様な発想が蔵前の「浅草御米蔵」の八本の入り堀である。ここでは 札差商人が武士の俸禄を担保に金貸し業も兼ね、貧富の差を大きくしていった。

  江戸城の完成により、日本橋川と京橋川を残して舟入堀は埋めたてられ、道路や町地となってい くのが元禄年間であり、紅葉川(八重洲通り)は弘化二年(一八四五)に埋立られ、江戸湊も霊岸島と佃島の間を中心に浅草、蔵前、鉄砲洲沖、品川沖等隅田川右岸に発展していく。

  川の右岸、左岸とは上流を背にして右手が右岸であり、下町等で知らない堀割に出くわすとその 時間帯により流れが逆走、どちらが上流か解らない場合がある。

 江戸湊 河岸へ行くのは こっちかえ

千石船から茶船(米六五石積を基本、船士一人、賃金三〇〇銭、最大一三〇石まで積んだ)等に移 し替えられた物資は日本橋川、神田川、亀島川、八丁堀など利用してそれぞれの「河岸」へ運ばれ ていった。正に江戸湊は心臓、肺であり、それぞれの掘割は血管の役割を担った。また、隅田川の 川底は上流からの堆積により浅かった為、廻船から河岸をむすんだ茶船等艀は「出買い」「迎え荷」 「瀬取り」等のヤミ取引(船頭などの横流し)を防ぐのにも役立った。

  江戸湊は、廻 かいせん 船の入港する「外湊」と、艀に積まれた荷物の上げ下ろしをする「内湊」がある。 町人の動かす物資は外湊でじかに陸揚げが出来ない為に、海船から艀に積み替え内陸部の掘割の河 岸に荷揚げをした。河岸の成立であり、これらの河岸が江戸湊の内湊である。

  日本橋を中心とした江戸経済の発展は対岸深川、本所に担う処が大きい。日本橋、京橋、神田等 のお店(たな)は、火事が多い、地価が高い、河岸地利用の制限が多い、(水路に面した地所の課 税基準=「小間割」はその間口に等しい巾の河岸地の利用が認められた為、高い税率がかけられ た。)海港の泊地不足等々の悪条件をクリアする為、これらを深川、本所特に深川・佐賀町に求め た。火災対策、商品市況の調整の為、荷受けの主力を江東地区に置き、貸蔵を使って在庫の保管、調整につとめた。結果、次第に江戸の生活物資や「下り物」の倉庫地帯としての機能を備えていく。

江戸純情派「チーム江戸」

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