第6章 江戸湊と河岸 ①湊と港

 「江戸の湊   陽のあるうちに出る舟入る舟   幾千艘とも数しらず(中略) 舟路の行方はいざしらず   波のお花の末に見え候こそ   江戸にて候と」 「湊」は水を奏でると書く。つまり水が集まってきて散る、そしてそこに   何かが生み出される。 湊は自然の地の利を人間がその恩恵に預かり、人や物が集い、散る場所を指し、そこに価格を決め る市場を形成、湾や浦に複数の入江を持つ河口付近で、海や川と陸との接点の場所である。津、渡、 泊、湊など系列的な言葉で表現され、必ず対岸に渡ると云う目的を持った言葉として使用された。対し「港」は人工的に造られた舟着き場、舟を着ける施設と云う意味合いであり、桟橋、埠頭を 表す名詞的な言葉である、清盛の福原(神戸)、実朝の材木座(鎌倉)がそれである。江戸湊は本郷台地の延長部にあり。半島状に「江戸の海」=東京湾に突き出ていた「江戸前島」 の海岸線の総称であった。つまり家康が江戸に入った天正一八年(一五九〇)当時、まだ前島が鎌 倉円覚寺江戸領有の時代は、半島の海岸線が湊としての機能を備えていた。その後の埋立により江 戸湊の位置は江戸の拡大と共に変化していくのである。

  江戸は臨海低地に意識的、組織的に都市を造った場所であり、当時唯一の大量輸送手段としての水運を確保する為に、従来の自然的条件を利用した形の湊に掘割、運河、舟入堀等の人工的造作 を加え、効率のよい湊に再編成していったのである。造成された埋立地に「神田上水」「玉川上水」 等の飲料水の施設を造る事により   湊としての機能を確保していった。 「武州豊嶋郡江戸庄図」俗に云う「寛永江戸図」には前島の背骨、通町筋の下に櫛型の舟入掘を 見つける事が出来る。江戸城建設の為の物資搬入路である。伊豆半島からの石や木曽川流域からの 木材を江戸湾に搬入、更に八丁堀から櫛型の底辺部分の楓川に入り、縦に結んだ舟入堀によって、 城の近くまで物資を搬入する事が出来た。 江戸の拡大により船は霊岸島沖に停泊する様になり、流通物資は艀に積み替えられて、各運河両 岸の河岸に運ばれ、大量輸送手段である船運の基地が形成される。この地域が江戸経済を支える基 地になっていく。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000