ニ 江戸の人災と天災
明暦大火後、更に江戸の町は災害にみまわれる。天和二年(一六八二)「お七火事」、八百屋お七 が好きな人に会いたさへの付け火の原因となった火事である。明和九年(一七七二)「明和の大火」、 目黒行人坂大円寺から出火、新吉原から千住まで延焼。文化三年(一八〇六)「文化の大火」丙寅の大火、車町の火事とも呼ばれるこの火事は芝車町から浅草までを焼く。その前年描かれたのがメ トロ日本橋のコンコースに展示されている「熈代勝覧絵巻」のレプリカがある。文化文政時代とい えば江戸が一番江戸らしかった時代、日本橋通町筋を東から西側の町並みを俯瞰したこの絵巻は当 時の日本橋の繁栄ぶり、生き生きとした人間の生き様、動きを見事に描きだしている。
安政二年(一八五五)一〇月二日の夜一〇時頃、死傷者七千人余、倒壊家屋約一万五千戸に及 ぶ「安政大地震」が発生。マグニチュード 6.9 の亀有、亀戸線の直下型地震である。前年の嘉永六 年(一八五四)「ペリー来航」に加え世情を更に不安にさせた。維新後、江戸が東京に変わっても 火事、災害は続いた。明治五年「銀座の大火」、大正一二年「関東大震災」、昭和二〇年「東京大空 襲」。災害、戦災により江戸人、東京人の苦労は続く。
我ら江戸、東京を愛する人間がいれば、何そんなもんと云う人間はいつの時代でもいる。それぞ れの言い分を御紹介する。江戸勤番のある紀州藩士の日記『江戸自慢』によれば「江戸の家十軒は 上方の一軒にかけあう、箸で家建て糞で壁をぬるとは江戸小家のこと」云われてみれば「百も承知 二百も合点」。しかし、田舎の人間に云われる筋合いではない。江戸繁栄の原点がここにある。
◇キーワード◇
ロンドン 大火
1666年中世都市ロンドン市内のパン屋の竃から出火、4日間燃え続け市内の
85 %1万3200戸を焼失したが死者は記録では5名にとどまっている。原因は木 造建築が多く街路が狭かった事等による。これにより国は道路を拡張、建物を不燃 の煉瓦造、石造に徹底させた。この頃ペストが流行していたが。この大火により多 くの菌が死滅、感染病の低減につながったとの説もある。またこれを契機に世界初 の火災保険も発売された。
戦災
戦災とは戦争、戦乱によって非戦闘員若しくは非軍事的施設が被害を受ける事を災 害の一環として捉えた呼び方で、国民保護法における武力攻撃災害に相当する。日 本においては単に戦災という場合「太平洋戦争」による被害を指す事が多い。日本 の本土が戦災にあったのは末期の事であり、米国の爆撃機による無差別空襲、沖縄 地上戦、広島、長崎では原爆投下、これらの災害で 50 万以上の人々が犠牲となった。
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