ハ 江戸のメンテナンス
老中保科正之による緊急時の対応策に次いで、幕府は空間、火除地確保の為、廓内の御三家及び 大名屋敷を外堀の外へ、また神社、寺等を郊外へ移転、そこへ他の地域の町の代地を与える形で 土地を活用、町数の大幅な増加となる。寛永期まで古町三七四町であったのが大火後の正徳三年 (一七一三)には九三三町となる。所謂「お江戸八百八町」の誕生である。
嘘よりも 八町多い 江戸の町
さらに寛政四年(一七九二)一六六八町を数え人口百万都市、ロンドン、パリを凌ぐ大都市へ発 展していく。
延焼防止の為、道路を拡幅、浅草・上野・両国等に広小路設置、防火線として日本橋川に石蔵、 神田川に堤を築く。避難路の確保の為、両国橋を創架、これにより本所・深川の開発が進み、江戸 の町は拡大していく。また、防火対策として万治元年(一六五八)、武家屋敷を対象にした「定火 消し」制度の確立。享保三年(一七一八)、八代吉宗の時代、町人地を対象とした「町火消し」制 度が結成される。市内「いろは」四八組、深川一六組、火の見櫓の設置令等江戸のメンテナンスが 充実していく。
江戸町民もお上の政令にだけ頼る事なく自衛手段をいくつか講じている。大店では土蔵の建設、 常時鳶職に声をかけておき火事の際には駆けつけてもらう、根岸・向島に別荘を作り冬の凬の強い日等は、前もって妻子を避難させておく等、きめ細やかな対応をしている。江戸城大奥の御女中達 も凬の強い冬の夜は、帯を解かず結び目を胸 むね の方に廻して休んだと云う。
さらに日本橋等の大店では緊急対応策として、木場の掘割に自己店舗部分の骨組、柱、壁、屋根 部分を溝を彫った状態で常に保存しておき、いざ火事発生となるや、焼け跡に木場から材料を緊急 搬送、即組立、即営業。儲けを逃がさない。流石、伊勢、近江など関西系の大店は用意周到である。 物事は日掛け、月掛け、心掛けである。この対応策、敗戦直後の昭和二〇年頃まで続く。
こうした努力とは裏腹に、いつの世も長年住み慣れた土地への愛着はひとしおであり、幕府の対 応策からの目こぼしを願いでている例がある。日本橋周辺の広場構想に対し、享保六年、日本橋西 河岸町・呉服町・本材木町・本石町辺りの火除地設定計画を、町地より反対請願があり広場作りを 断念している。江戸時代にこの構想が実現していれば、日本橋も含め各町々にはヨーロッパの都市 同様、道の交差点や橋詰に広場が出来、人間が集まり露天が開かれ、大道芸人達が得意の芸を見せ、 子供達がはしゃぎ回る空間があった筈である。広場があれば、青空があり樹木が育つ。今の悪名高 き、首都高もなかったかも知れない。陽の当る桜並木の日本橋があった。
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