ロ 明暦の大火

明暦三年(一六五七)旧暦正月一八日未の刻(午後二時頃)、本郷丸山本妙寺が火元とされる所 謂「振袖火事」が発生。駿河台から鎌倉河岸、鉄砲洲から大川を越え佃島、深川にも飛火、向島の牛島神社辺りで鎮火する。伝馬町牢屋敷にも火の手が及ぶ。囚人が赤猫と呼ぶ火の粉から一時解放 された囚人達は浅草御門に殺到、「囚人が牢を破って脱走した」との流言により門は閉鎖された為、 一般市民を加え大混乱となった。押しつぶされ圧死、高さ一〇丈(約三〇m)の石垣から落ちて墜 落死、神田川に落ち水死等、死者二万三〇〇〇人余り大惨事となった。浅草橋近くの「初音の森神 社」には、明暦の大火を記録した浅井了意書の『むさしあぶみ』が残されている。

  第一次火災が振袖火事と呼ばれる所以は、三人の娘達が同じ振袖を着て死んだ経緯がある。最初 の娘が親から新着の振袖を買って貰い喜んで着ていたがまもなく病で死んでしまう。悲しんだ両親 はその振袖を古着屋に売ってしまう。知らずに二番目に購入した娘も、それを着てから間もなく死 に、その振袖は再び古着市場に流される。三度目に袖を通した娘も間もなく死亡。くしくも三人共 正月一八日。これはこの振袖に何か因縁がと考えた。

  三人目の娘の両親は本妙寺で供養、折から台風並みの大凬にあおられ火のついた振袖は寺の軒先 へ飛び火、市中へ燃え拡がっていった。こちらが通説になっているが火元は別ではとの説もある。 いずれにしても三人の娘の急死の原因は最初の娘の病が原因であったと思われる。その病とは当時 不治の病とされた労咳(肺結核)しかもかなり重症なウィルスであった可能性が高い。このウィル スが付着した着物を着た娘達は次々と感染、若い命が犠牲になった。

  二度目の出火は翌一九日巳の刻(午前一〇時頃)を廻った頃、伝通院表門下の新鷹匠町(文京区 小石川辺り)から出火。折からの北西の凬にあおられ火の手は水戸藩屋敷からお茶の水の外堀を越 え、江戸城の天主閣に火がついたのは正午過ぎ、三代家光が建てた寛永五層の天守閣は炎上、四代家綱は西の丸に避難。申の刻、常盤橋から大名小路を抜け、日本橋から大川辺りで鎮火。燃え落ち た天守閣は明暦の大火以降再建されなかった。江戸幕府が武断政治から文治政治へと切り替わった 大きな転機であった。

 

この英断を下したのは老中保科正之。大火後幕府米蔵を開き一日当り一千俵の米を供出、府内 六ヶ所で粥を炊き出し、町中へ銀子一万貫目(金一六万両)支給、江戸市民の救済にあたっている。 保科正之、江戸時代を通して最高クラスの政治家と評され、父親は二代秀忠、年上の御台所お江の 方に内緒でつくった唯一の隠し子が正之である。発覚をおそれ早くから養子に出され保科家を継ぐ。 後会津二十三万石の藩祖となる。会津藩の家訓に徳川宗家の安泰がある。このため幕末、藩主松平 容保は最後まで奥羽越列藩同盟の盟主として薩長軍と戦う事になる。

  三度目は同じく正月一九日申 サル の刻頃(午後十六時頃)、市ヶ谷麹町の町屋から出火、江戸城南側 から虎ノ門を焼き、芝増上寺の半分から江戸の海まで達して鎮火。一八日の午後二時に発生した都 市火災では世界史上最大の被害をもたらした明暦の大火は三日後の二〇日の朝辰の刻(午前八時 頃)になってやっと鎮火。一日目が一〇時間、二日目が二四時間、三日目が八時間、合計四二時間、 江戸市民は火災の恐怖の時間にさらされたのである。

 

以上三回の出火により、二二里八町四方、江戸の約三分の二を焼失、当時の江戸人口約三五万 人のうち死者一〇七、〇四六人に及ぶ大惨事となった。この原因は、①当時隅田川に架かる橋は千 住大橋のみで府内から避難してきた人達が隅田川にぶち当たり、逃げ場がなく焼け死に溺れ死ん だ。②加えて一九、二〇日は異例の寒波が江戸を襲い、着のみ着のままで焼きだされ疲れた体をいたぶった。この異常な寒さで餓死、凍死する人達が続出、火事での犠牲者を凌ぐ数値になる。

  後年、時代が変わり大正一二年におきた「関東大震災」においても地震そのものの犠牲より、そ の後に発生した火災による犠牲が多かったのは、江戸時代起きた災害の教訓が生かされなかった事 に起因する。

  一六五七年「明暦の大火」三日間、一六六六年「ロンドン大火」四日間。その後、江戸の町は多 少のメンテナンスはあったものの、基本的には木造建築が継続された。対し、ロンドンは徹底的に 都市の不燃化に取り組んだ。結果、東京の下町は昭和二〇年、サイパンからのB 29 による焼夷弾に より、焼け野原、明暦大火とほぼ同数の犠牲者を出した。木造建築からくる焼死である。不燃化に 熱心に取り組んだロンドンの街は同じく第二次世界大戦時、ナチスドイツのロケット弾の攻撃に耐 え古い街並みを残している。先を見据えたスタンスの違いが戦禍から自分の町や住民を救い、結果 勝利に結びついた。ロンドンに遅れる事二〇〇年余の明治五年、銀座の大火を契機に東京はやっと 不燃化の動きが始まる。

  因みに隅田川に浅草吾妻橋から、やや下流に厩橋が架かっている。江戸の頃は「うまやの渡し」 があった。府内の多くの犠牲者はこの渡し舟に乗せられ対岸「本所回向院」に埋葬された。為にこ こは「三途の渡し」とも呼ばれた。回向院の正式名は諸宗山無縁寺回向院、六尺五寸五分の阿弥陀 如来座像が御本尊である。江戸のその後の災害「天明の大飢饉」「安政の大地震」等による多くの 犠牲者もここに祀られている。

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