第4章 武士の住まい 大名屋敷と長屋

  幕府が開かれ臣従した諸国の大名達は、こぞって江戸に屋敷を構える。江戸時代初期の屋敷は上 と下のふたつ、第一号は藤堂高虎の屋敷であったといわれる。明暦大火後は上・中・下の三屋敷。 上屋敷は本邸、藩主と参勤交代制度によって江戸定住となった奥方が居住。一〇~一五万石程度で 七千坪、一~二万石の小大名でも二五〇〇坪前後の敷地を占有、江戸が庭園都市と云われる所以で ある。中屋敷は前藩主と世継ぎが居住。下屋敷は領地からの産物を保管する蔵屋敷、災害時の為の 避難地、自給の為の耕作地、別荘地的使用、と多面性をもった屋敷であった。こうした目的をカ バーする為、下屋敷は大体隅田川や掘割などの岸辺、水運の便利な場所に立地した。その屋敷には幕府から江戸屋敷として大名に与えられた「拝領屋敷」、藩主が自前で土地を買い 取った「抱え屋敷」があった。旗本、御家人達は拝領屋敷や組屋敷を借り、八丁堀の旦那衆は(与 力・同心)組屋敷の一角を借り、そのまた場所のいい通りの一角を医者等にまた貸し、生活の足し か遊興費に廻した。長屋に住むのは庶民達とは限らない。「江戸勤番」と呼ばれる地方大名の藩士達は大半が長屋住 まい、道路に面した二階建ての表長屋がその屋敷の塀兼住居として建てられた。ここに住むのは士分、士分以下は屋敷内の棟割長屋で生活した。江戸勤番とは江戸屋敷で勤務している藩士を指すが、 藩主と共に江戸へ来て到着後すぐ国元へ帰る「立ち帰り」、すぐ帰らず交代明けを待って一緒に帰 る「江戸詰」、江戸屋敷に数年に渡り在住して勤務する江戸家老、留守居役達の「定府組」等、大 名家は諸々の役廻りを抱えていた。

  参勤交代制度は徳川政権の安定化、逆に捉えると大名の弱体化を目指した制度であった為、隔年 の交代は藩の経済を疲弊させた。諸大名年収の五〇~六〇%が参勤交代で江戸・国 くにもと 元と往復する 「二重生活」にあてがわれ、よって全国消費の約五〇%が江戸の町で費やされた。まさに江戸は一 大消費都市であった。 藩の困窮を反映し俸禄の遅延、減給を賄う為に武士のバイトが宝暦の頃から組屋敷毎に始まり、 なかには特産化する商品にまで成長した。麻布の草花、代々木・千駄木の鈴虫、下谷の金魚、青山 百人町の傘等がそれである。

  諸国のおさむらいさんを表す言葉に「浅葱色」がある。若い葱の葉の色は緑がかった薄い藍色。 江戸勤番の田舎侍(失礼だが江戸っ子や吉原の妓達はこう評した)の着物の裏地は浅葱色の木綿生 地を使用した。この為、野暮の代名詞として遊里では「浅葱裏」と囁いた。しかし江戸つ子も元をたどれば田舎 の人間、寄せ集め、たまたま好奇心か、金儲けか、喰いつめたかで江戸へ出て来た御先祖様の末裔、 ルーツをたどればそんなに威張れる玉ではない。加えて遊里に働く妓達も色々な事情があって昨日、 今日江戸に売られて来た者もいた。それぞれの身を忘れ、郷を忘れ、誇りを忘れ、江戸一般大衆の風潮、表面的考えに同調しやすいのは江戸っ子のもつ格好しいか、元々田舎っ子である孤独のせい か、難しい問題である。<<キーワード >大名屋敷の 分、幕府は江戸の町作りにおいて、武功派重臣の屋敷を大手門に酒井家、小田原口(桜 田門)に井伊家、甲州口は内藤家、中山道口は榊原家等と江戸の要所要所に配置防 備を固め、さらに御三家に対しては水戸藩小石川上屋敷を神田上水近く、尾張藩上 屋敷を上水口近くの市ヶ谷へ、紀州藩には赤坂中屋敷を配する等、飲料水の安全確 保の監視役に当たらせた。


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