4 長屋のカミさん
長屋のカミさんは明け六つ起床、燃料節約と火事予防の為一日分の飯をまとめて炊く。朝食は炊 き立ての御飯に、棒振りが売りに来た蜆の味噌汁に納豆。亭主を職場に子供を塾に追い出し、お天 道様なら井戸端でおしゃべりしながら洗濯、雨なら部屋で繕い物。昼御飯はおひつに移して置いた 御飯に隣近所持ち寄ったおかずで食べ、その辺を片づける間もなく、可愛い?子達が塾から帰って くるのが八つ半頃、一緒に「おやつ」を食べながらしばし親と子の会話。八つ頃の時刻に食べるか らおやつの名がついた。(正確には「八つ半」が午後3時となる。)会話が切れる頃愛しい?亭主の御帰還。風呂か飯かどっちが先かを確認、それに合った対応をす る。これを怠ると気の短けえ亭主の文句が始まり、夫婦喧嘩の元となるから、この辺の触りが肝要 なのは今も変わらない。夜は冷えた御飯に鉄瓶のお湯をかけた湯漬けか茶漬け、朝の味噌汁をかけるかして棒振りの惣菜 でごまかす。魚の油でさえ燈油は高い時代であったから、余程の用事がない限り、「寝るより楽は 無かりけり」と早々煎餅蒲団を川の字に敷き潜り込んだ。太陽と共に起き、太陽と共に寝る。究極 のエコ生活であった。今でもそうだが家事一般をこなし、長屋のカミさんは亭主におおっぴらにパートに励んだ。①一 人者の掃除や洗濯の手助け、②出稼ぎ職人の店番や銭勘定、③縄暖簾などの飲食店のパート、④機 織り、等の稼ぎを亭主に文句云わせない自分のおこづかいや子供の塾、身の回りに充てた。それで も宿六が怪我や風邪ひきで商いがうまくいかない日が続くと黙ってその中から手当した。まさに女房の鑑である。亭主が泣いて喜ぶ。それでもきつくなると米の御飯に段々芋や麦、粟等 が増え始め、日がたつにつれその他の物に米の粒がついている状態になる。こうして増量してしの いだ。これを「糧米、かてまい」と云う。近頃では季節感が段々薄れてきたが、昭和三〇年代頃は 季節、季節の旬の具材、さやえんどうや筍の混ぜ御飯が旨かった。自分の家で作らなくてもたまに ①おすそ分けで自然と廻ってきた、長屋人間の生活ぶりがまだ「三丁目の夕日の時代」にはあった。 さらにこの時代には、②何処いくのと声をかける、③開けっ放しで鍵をかけない、④近所の子達に 注意するうるさい大人達が多かった等、江戸の長屋の人達と共通するDNAを持ち合わせていた。 いや逆かも知れない。長屋の人々のDNAを我々が受け継いでいるのである。 「今はただ 人柄よりは 稼ぎ柄」
さて、ここで江戸小咄をひとつ。「箸と椀 持ってきやれと 壁をぶち」の通り、長屋の生活はお互いに助け合いの生活。隣の家からは、「ねぇ、今日味噌をきらしちまって」「うちのを持ってきな」向かいの家からは「ウチは醤油がねぇ」「うちのを持ってきな」とお互いに、貸し借りでその日の生活をしのいでいた。「ねぇ、うちの亭主しばらく出稼ぎで帰って来ないんだよ」「うちのを持ってきな、しばらく返してくれなくていいからね」借りてばかりいると、出来の悪い宿六を 体よく押し付けられる羽目となった。
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