3 長屋のインフラ
町のインフラに目を移すと、入り口には治安、防犯の為、「町木戸」を設置、明け六つから暮れ 四つ迄開かれ、それ以降通れるのは医者と産婆のみ、通過の際は拍子木が叩かれ隣の町木戸に知ら された。対し、「裏木戸」と呼ばれた長屋の木戸は明け六つから暮れ六つ迄、朝帰りはそれ以降の 時間にならないと入れない為完全に近隣にバレた。木戸の上には住民の名前や屋号を書いた木札や 貼り紙、そこをくぐるとと巾三尺程の路地、真ん中に雨水を流すドブ、火事の際はここに重要書類 (先取りした「三下り半」あたりか)を、投げ込んで逃げる。懐に入れて逃げ走るより余程安全で あった。無事戻り陰干しして再生、和紙と墨の為完全に戻る。長屋の行き止まりは共有部分、住民共用の、①稲荷、②井戸、③ごみ箱、④雪隠(トイレ)が効 率よく配置されている。
<稲荷>「京は地蔵に江戸なら稲荷。伊勢屋、稲荷に犬の糞」と云われる程に江戸の町、路地裏 迄稲荷が祀られていた。 <井戸>は、神田上水、玉川上水が敷かれていた地域では町毎に井戸を置き、そこに湧き出た上水 道の水を飲料水とした(たまに多摩川の鮎が出たとか)深川辺りの水道施設のない地域では、井戸 は掘っても塩分の混じった水の為、飲料水には向かずもっぱら洗濯(ここで毎朝開催されるカミさ ん達の情報交換の為のサミットを「井戸端会議」と云う)、食器洗い水撒き等に使用した。「井戸端へ 人の噂 うわさ を 汲みにいき」深川辺りの 飲料水は、銭亀橋辺りの龍の口から流れ出す、江戸城の余り水を桶に受け、大川を横切って町々に売 る「水売り」がいた。「 本所、深川 銭亀の 反吐を呑み」 天秤にさげた前後の荷、一荷の水の値段は波銭1枚4文、これを水瓶に保管して飲料水とした。 尚、江戸の町は徹底したリサイクル都市。利用出来る物はトコトン利用、竃の灰までも肥料、洗濯 に再利用された為、ごみ箱は常に空状態であった。
<共同の厠>は下半分が扉になっている建物、外部からの不審者の侵入を防ぐ為この様な作りに なっている。お隣、中国西部に行くと真ん中に扉、顔が見えてもいいか、お尻なら構わないかはお 国柄か、民族性の違いか面白い。勿論水洗ではない、勿論とは云えない。海外行くとローマ帝国の遺跡に出くわす。現地のガイドの方が自慢して「当時から水洗の設備がありました」と説明してく れる。我が国でも水が豊富な地域では水洗が利用されていたかも知れない。しかし貯蔵?された人 糞は深川辺りの長屋では葛西のお百姓さんが舟に桶を乗せ定期的に回収にきた。 回収と云ってもタダではない、それなりの報酬を支払った。金、現物を支払って手に入れるから 「金肥」である。例えば年間汲み取り料、一人二両若しくは沢庵一五〇〇本代納の記録がある。支 払いは一律ではない。何故ならその人の食生活によって製品の栄養価、つまり畠に撒く肥料として の「N、P、K」の効率が異なるのは自然の理である。これを同価格で購入するのは経済法則に反 すると云った次第で購入価格を五段階に設定。所得が良く比較的高タンパクを摂取している層を上 位に、毎日御飯と味噌汁、沢庵的な食生活の層を下位にもってきた。長屋の分は大家に支払われ、 暮れの餅に化けて店子に配られた。「 店中の 尻で大家は 餅をつき」
江戸初期、毎日の食事回数は二回であったと云う。それが現代の様に三回になったのは元禄の頃 から。献立は一汁一采+漬物、梅干。米そのものが主食兼おかず、田舎の子が江戸に出てきて八分 搗きから一〇分に近い白米を毎日食べているとビタミン B1 不足による脚気となる。しかし奉公を辞 め田舎で再び色々食べだすとこの脚気は治癒した。故に「江戸わずらい」と称された。
0コメント