第3章 江戸の住まい 1 九尺二間の裏長屋

  「九尺二間にすぎたるものは 紅のついたる火吹き竹」 やっときた新妻が朝少し早く起きて、旦那様の為に朝御飯を作っている光景である。江戸時代初 期、絶対少数の新妻がいつまでおさんどんをするかは別問題として、この九尺×二間=三坪が江戸 庶民の生活の場であった。 「長屋」とは古代から寺院や官舎の中にあり、建物の内部をいくつかの住戸に区切り、それぞれ 専用の出入り口をもったもので、僧、尼、役人の住まいとして使用された。江戸時代になって享保 年間(一七一六~三六)以降、人口増加に伴い、町人地の不足を補う為、六〇間四方の町を二〇間 ずつ区切った真ん中、従来「会所地」として使用していた場所に長屋を建てた。表長屋(表店・二 階建が多く一階店舗、二階住居)に対し、三~六尺の裏道に面した裏長屋は裏店と呼ばれた。 ここに土地利用の有効性を考え、蒲鉾を縦に切った形の「割長屋」、さらに建物の棟(背骨部分) に沿って二等分、これをさらに均等に縦割りした「棟割長屋」が建てられた。つまり割長屋は前後 が外に面しているが、棟割は三方が隣の壁、入り口兼「へっつい」の部分のみが外気と繋がっている。陽当たり、風通し共すこぶる悪く、「げじげじ長屋」、「なめくじ長屋」とよばれた。

  「守貞漫稿」によれば、長屋とは「一宇数戸ノ小民ノ借屋」町人人口約五〇万の内、約七〇% (文化十一年)が賃貸生活であり、特に店借の密集地は深川・本所・四谷辺り等であった。四 ・ 五 帖の畳と一 ・ 五帖の玄関兼台所あわせた六帖の部屋代は四〇〇~六〇〇文/月、ここに親子三~四 人が生活、子供達は一二歳頃になると丁稚、弟子として自立していった。  この賃収入を見込んで三井越後屋等の大店は呉服商、両替商に加え大坂御金蔵御為替の担保とし て町長屋の経営に参入、宝永七年(一七一〇)には総資産の約四五%が不動産部門で占め、長屋の 経営が本業を支える経営基盤となっていた事が解る。その長屋を差配していた人物は「大家さん」。 大家と云えば親も同然、店子と云えば子も同然と云われる程、両者の関係は密であった。昔々、母親に「兄弟は五本の指」「兄弟は他人の始まり」と相反する事を教えられた。「じゃ親子 は?」と聞くのは憚られそのままになってしまったが、なまじ馬鹿な息子に変な事を教えると、い つまでも親ばなれしない子か、逆に親を返りみない子になる事を恐れたのかも知れない。はっきり とした教示がなかった御蔭で両親にはそこそこの御付き合いをしてもらった。感謝である。

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