4 天下普請
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利、同8年(1603)、征夷大将軍となった家康は法 制的に発令する立場を得る。これまでの徳川家自営工事から第二期工事以降、土木工事、建築工事、 市街地造成等を「天下普請」と呼ぶ。天下普請とは天下人と呼ばれた信長、秀吉、家康らが、その 配下の諸侯を支配する軍役と同じひとつの方法でこれを制度化標準化(千石夫)したのは家康であ る。天下人は諸侯の力量に応じて禄高を与える。禄高一万石とは、米に換算して一万石分相当の生 産があがる範囲の土地の、支配権を与える事を意味し、支給される米の分量が一万石である訳ではな い。あくまでも自分で稼ぎだすのである。今も昔も食べると云う事は大変な努力を要した。江戸の城・まち、江戸の大枠を造りあげた「天下普請」は、明暦大火、明暦3年(1657)後 の万治3年(1660)四代家綱の時代まで70余年に及び、一応の終止符をみる。その70年間余り、最初から「大江戸完成図」が出来上がっていた訳ではない。思考錯誤し、そ の都度諸問題に対処し、休み休み、失敗を繰り返しながら、大江戸、花のお江戸の城とまちが造り あがっていくのである。
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