3 江戸の治水

「水を制する者は天下を制する」天正18年(1590)江戸に入った町造りの名プランナー家 康は、道三堀、小名木川を堀削、江戸前島の中腹を貫ぬく日本橋川をもって繋ぎ、海の物資を江戸 城「和田倉門」まで水上輸送のルートを創り上げる。和田倉の「ワダ」とは古代用語で「海」を意 味する。併せて「日比谷の入江」を埋立、東の葭原を埋立、江戸の原形=町を造り上げていく。入 府当初の江戸は「東の方平地の分はここかしこも汐入りの茅原にて、町屋侍屋敷で十町と割り付べき様もなく、 偖又南の方は平々と萱原にて武蔵野へ続き、どこもしまりと云ふべき様もなし」(岩淵夜話別集) といった状況であった。江戸は臨海低地に意識的、組織的に都市を造った「まち」であり、造成された埋立地に神田上水、 玉川上水等の飲料水の施設を開発した。当時は上下水道共に自然流下、低平の土地では落差を一寸 (約3㎝)単位で土地の勾配をつける事が重要な課題であった。従って通町筋(中央通り)を前島の尾根に沿ってつけ、外堀、三十間堀、楓川を排水路兼物流水路として堀削(埋め残し)した。為に、中央通り(東海道)は京橋、日本橋で逆くの字を描いて造られている。

江戸純情派「チーム江戸」

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