2 家康江戸入府

  12世紀初頭から開発されてきた江戸は、「荏原郡(こおり)桜田郷」のなかの一地名であった。 長録元年(一四五七)、大田道灌江戸城を築く。 「我庵は松原つづき海近く   富士の高嶺を軒端にぞ見る」城の際まで水辺であった。天正18年 (1590)、小田原評定の末、後北条氏滅亡。小田原城を眼下に見下ろす戦陣で、「家康殿、ここ より東方に江戸と云う国がある、そこへ行ってみないかね」。いわゆる関東の連ションの始まりと 云われる場面での会話である。家康考えた。ここで断ると今まで築いてきた徳川家が軽くヤバイ。 で、秀吉に「面白そうな処ですね」と云ったかどうか、家臣達の猛反対を押しのけて江戸への国替 えを決断する。徳川幕府260余年の幕開けである。 決して家康が天下人秀吉の軍力に屈した訳ではない。「小牧長久手の戦い」では、勝利している実 績をもつ家康は江戸の未来に賭けたのである。 家康は娘督姫を北条家六代氏直に嫁つがせている。所謂お互いの都合の政略結婚である。その娘 督姫を通じて北条家はもとより東国江戸の状勢を探らせていた。孫子の兵法「彼ヲ知リテ、己ヲ知 レバ」である。家康は鷹狩に行くと評して地方の状勢を探り、佃の漁民には漁を建前とし江戸の海 の監視を担わせたのもこの一環である。江戸はどう云う処か? 小田原・鎌倉に比べどうなのか?  こう云ったデータは既に頭にインプットされていた。小田原や鎌倉は   ①外海に面した良好な湊が出来ない、②箱根山や鎌倉五山に 囲まれ後背地が狭い、対し、③江戸は交通や物流の要衝である、④神田上水や溜池等飲料水の確保 が出来る。以上検索の結果、八月一日(八朔)府中を経由、江戸城に入る。江戸お討入である。

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