信長を裏切った男たちⅲ 明智光秀「光と影」1妻煕子
「姫たちの落城」番外編、信長を裏切った男たちでは、ⅰで紹介した平蜘蛛の茶釜と共に信貴山城で爆死した松永久秀に続き、前回ⅱでは、自分や家来たちの家族を見捨てて逃げ延びた、好意的に見れば作戦のため移動したとも見れるが、結果的には犠牲にして自分だけが生き延びた荒木村重を御紹介した。この二人の他にも、信長の妹市を娶りながら、戦闘力はありながらも戦略的見地に欠け、朝倉家との長年の柵(しがらみ)、因縁から脱しきれず、信長から離反、「姉川の戦い」に負け小谷城で自刃した浅井長政がいる。(姫たちの落城 第一章「意は男子に劣らず」を御参照)今回ⅲでは、いよいよ本命、長年にわたり信長の下に仕え、「叡山焼き打ち」などで功をあげながらも、自己の天下を目論んだのかどうか、本来の動機が不明で、多分本人にも納得いかないまま、クーデターに走り、結果自らも自滅していった、信長にとっては究極の裏切り者、明智光秀の物語である。光秀の人生の中で解っているのは、信長の家臣として世に出、「本能寺の変」を起こすまでの15年足らずである。出自や若い頃の前半生は謎のままである。それは後世謀叛人というレッテルを貼られたため、多くの資料が焼き捨てられたからだとされている。
光秀の正室煕子(ひろこ)は、美濃土岐郡の土豪妻木氏の長女として生まれた。16歳の頃、光秀との婚礼を控えたが、疱瘡を患い顔に少しの痘痕が残ってしまった。煕子の実家妻木家では、そのことを光秀に遠慮して妹の八重を嫁がそうとした。しかし、光秀はそうした遠慮は無用として、「たかが肌の凹凸位で人間が変わるものではない、私が必要とするのは煕子である。婚約を反故にすることはない」と、約束通り煕子を妻に迎えた。近代医学が発展するまでは、「疱瘡は見定め 麻疹は命定め」とされた。そうした次第で二人の仲は良く、煕子は七人の子供を生んだ。「明智軍記」によると「いずれも一腹の子ら也」とあり、七人全てが煕子の子供たちであった。美濃から越前に逃れてきた光秀は、母方の縁を頼りに越前称念寺の門前の家を借り、寺子屋を開き生計を立て、この地で三男四女を設けたとされている。
煕子の内助の功を示すエピソードとして「黒髪伝説」がある。称念寺は「游行」とよばれる旅をしながら布教活動をする宗派の寺で、永禄五年(1563)光秀35歳の頃、この寺の住職の口添えで、朝倉家の家臣たちと連歌の会を催す機会を得た。しかし、長引く浪人暮らしのためその資金がなかった。それを見かねた煕子は自分の黒髪を切ってそれを売り、その費用を工面した。連歌の会は大成功のうちに終わり、光秀は無事朝倉家仕官を果たしたという。その後、信長に仕える様になった光秀は越前、丹波、天王寺と続く合戦によって疲労を蓄積、病に伏せるようになった。これを心配した妻煕子は神社仏閣に祈祷を依頼し必死に看病した。光秀はその甲斐があって回復していった。ところが夫の回復に安堵したのか、今度は煕子が病に倒れ天正四年(1576)、とうとう亡くなってしまった。光秀は「本能寺の変」を起こす6年前、妻煕子が亡くなるまで側室を置かなかった。戦国時代の男たちにしては愛妻家であった。明智家の菩提寺西教寺(大津市坂本)本坊には、そんな二人の座像が祀られている。煕子の死亡については他にも説がある。天正十年(1582)「本能寺の変」ののち、坂本城にいた煕子は光秀の死を知り、城の金銭を家臣の家族に分配、落ち延びさせ、城に火を放ち夫のあとを追った。48歳とも53歳とも言う。元禄年間(1688~1703)深川から「おくのほそ道」に旅立った芭蕉は、親不知から金沢、北陸へと足を運んで、越前称念寺に宿を借りた。其の門前で仮住まいをしていた、光秀夫婦のエピソードを知った芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」と、煕子を讃えて詠んだ。こうして煕子の黒髪美談は世に知られるようになった。この句碑は夫婦の座像と共に西教寺に建てられている。
明智光秀44歳は、元亀2年(1571)「叡山焼き打ち」で軍功をあげ、近江国に5万石を拝領した。その3ヶ月後、叡山坂本に城を造営、翌3年完成した「坂本城」である。天正10年には小天守も造られた。坂本城は焼き払った延暦寺を監視、琵琶湖の制海権を押さえ、浅井朝倉や湖北豪族に備える目的で築城された。比叡山山系と琵琶湖を天然の要害とし、越前に抜ける西近江路、京へ通じる山中道を備えていた。城は城内に湖水を引き入れ、高い天守閣をもっていた。宣教師ルイス・フロイスはその著者「日本史」で「坂本城は豪壮華麗で安土城に次ぐ天下の名城である」としている。坂本城は信長の安土城より4年前に築城されているから、如何に坂本城が先進していたかが伺えられる。琵琶湖西岸に浮かぶ坂本城は、今治城と同じく水城で、軍事目的や交易目的にも水運を利用した信長は、当時の居城岐阜城から京へ上るルートとして、先ず琵琶湖東岸佐和山城に寄り、現在の彦根辺りから琵琶湖を渡り、叡山坂本で舟を降り、志賀大津から京へ向かった。光秀もこの城をいたく気に入り、今井宗久などの茶人を城に招き、茶会屋を開き、連歌や和歌を詠んだ。こうして栄光の日々を送った坂本城であったが、「本能寺の変」以降、坂本城は浅野長吉を最後に解体され大津に移された。天下をとった秀吉が大坂に城を造り、大坂により近い大津が淀川の水運に便利なこと、また、比叡山延暦寺の警戒の必要もなくなったことなどがその理由である。江戸寛文6年(1666)の黒川道祐の紀行文には、「七本柳ノ二町程北ノ湖辺ニ明智日向守光秀ガ城跡アリ」また、享保19年(1734の「近江興地志略」には、「今の東南寺の地是なり、織田信長山門を責め坂本浜に城を築き、光秀をしてこれを守しむ。其之跡にに一寺を建、今の今津堂是也。古城地の時の石垣今に存す」とある。JR湖西線坂本、若しくは浜大津より京阪電鉄の路面電車叡山坂本で下車、国道161号線琵琶湖西岸浜辺沿いに、光秀が10年間ここを本拠地として活躍した坂本城があった。城址公園から北へ湖岸に出ると、当時の城の石垣が南北20mに渡って並んで湖面に姿をみせている。この石垣の他に瓦、美濃焼、信楽焼などの焼物、永楽通宝などの宗や明の通貨、鏡などが昭和54年の宅地造成に伴う発掘調査で見つかり、この辺りが本丸跡だと想定され、湖岸から本丸、二の丸、三の丸と並んでいたとされている。「われならで 誰かは植ゑむ一つ松 心して吹け 志賀の浦風」 <チーム江戸>
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